「愛」の字と「いとおしい」

「好き」とも「愛してる」とも違う「いとおしい」という感情について考えている。一応「愛おしい」と漢字を当てはめることもできるけれど、この「愛」という字は、一筋縄ではいかない文字で。

もともと仏教で「愛」と言えば「執着」とか「捕らわれる」という意味を持つ言葉で、肯定的に使われることはあまりない。「偏愛」という言葉なんかにはとりわけ、愛の持つ執着心が漂う。

漢語において愛は「あいする」「いつくしむ」のほか「物惜しみする」という意味も持ち、こちらも「自分の手元に置いておきたいと思う煩悩」という感じが強い。漢和辞典で「愛」を引くと、「国(日本独特の用法)」と書かれた記号の後に「かなしい、いとしい、まな(「愛娘」などに使われる)」が続く。

「いとしい」「いとおしい」は(インド仏教的でも中国的でもないという意味で)とても和的な感情だと感じる。それは執着ではなく、「誰かに取られたら惜しい」という気持ちでもなくて、ただ大切に思っているような、そういう感情。だから「愛」という字は似合わない。そんな風に思う。

今度は国語辞典を引いてみる。「いとしい」「いとおしい」は、どちらも「かわいい、恋しい」の他に「不憫だ、可哀相だ」を含意している。悲しみと隣り合わせの恋しさ、ということだろうか……。古語で「いとほし」と言えば弱い者への同情だったけれど、今は「同情」というニュアンスは薄れている。

いとおしさに含まれる悲しみは、何に対する悲しみなんだろうな……。それは、他者とどれだけひとつになりたくても、それを諦めざるをえないという、満たされない飢えみたいなものなんだろうか……。だとしたら、それは確かにある種の哀切を伴っている。

愛、愛ってよいもののように言われるけれど、その裏に何があるかがきちんと考えられることは少ないんじゃないか。その背後にあるのは、対象への執着や偏愛かもしれないし、あるいは対象が永遠に手に入らないことへの哀しみと諦念かもしれない。「愛は地球を救う」とか言うけれど、むしろ愛なんてないほうが、争いや保身欲のない平和な世界ができるだろう。

こんなことを言うと「愛は無条件に美しい」と信じている人たちから総スカンを喰らいそうだ。でもそれは、誰に対する愛?ある人に向けられる愛情は、他の誰かに対する憎しみへと、簡単に姿を変えるじゃないか?物事にはいくつもの側面がある。ある地点から見て美しいものも、他の地点からはそうは見えない。愛には憎しみという対義語があるけれど、いとおしさは対義語を必要としない。

そういうわけで、「いとしい」「いとおしい」という言葉に、愛の字を使うのは気が乗らないのだった。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。