何事も「わかる」ようになるには

美術館が目当ての旅行から帰ってきた。大塚国際美術館、徳島県

西洋の美術品を陶板でコピーして、実物大でズラリと並べている。のみならず、教会の壁画なんかは、教会と同じ空間を丸ごと作って展示する気合の入れようで、たった一日で架空のヨーロッパを旅した気持ちになる。

作品リストを見てもらうとわかる通り、古代の名もなき画家たちの作品から始まって、ラファエロ、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミレー、ベラスケス、ルノワール、フェルメール、シャガール、マネ、モネ、ゴッホ、ムンクにピカソ……。有名どころを文字通り網羅していて圧巻だ。

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もちろんなんであれ、本物を見られたらそれに越したことはない。それはわかる。だけど、美術の教科書で見たような数々の名画が、実際にどれくらいの大きさなのか体感できるだけでも新鮮だった。モナリザは思ったより大きく、フェルメールの絵画はどれもコンパクトだ。最後の晩餐は圧巻のスケールで、ミケランジェロの壁画に至っては、見上げて首をぐるぐる動かさないと見えない。そうか、これくらいのスケールなのか……と思う。

西洋絵画が中心なので、キリスト教絵画の数も多い。年代によって、作品が展示されるフロアが分かれているのだが、その結果、階によっては延々とキリストの磔刑や、聖母マリアの受胎告知を見ることになる。ずっと宗教画を目にして歩いた結果、特に懺悔することもないのに「おお神よ、私をお許しください」と祭壇の前に身を投げ出したい気持ちになった。恐るべし美術品のパワー。

観客の人気を独り占めしたのは『真珠の耳飾りの少女』。写真撮影をする人が次々に現れては撮っていった。数多くの傑作(の原寸大コピー)が揃う中で、それでもフェルメールの絵は印象に残るのがすごい。どの絵も静謐で、発光色のような白い明るさを持っている。

とにかくたくさん見ていると、そういうことがおぼろげに理解できるようになっていく。フェルメールばかり見ていても、その絵のよさはわからないけれど、他の画家の作品も数多く見ることで「やっぱりフェルメールはいいな……」という比較ができるようになる。だから、残念な絵だろうがなんだろうが、数をこなして見ることは大事だ。見れば見ただけ、自分の中のデータは増えるから……。

中には「なんでこれが傑作なんだ、気持ち悪いよ」と思うような作品もあった。おどろおどろしかったり、暴力的で凄惨だったり。だけどそれらも、多くの人が優れた作品として認めているものだろう。「自分にとっての負の衝撃作も、誰かにとっては最高傑作」という事実を、肌身で感じるいい機会になった。

何事も「わかる」ようになるには、質の善し悪しを問わず、とにかく数多く触れる以外にないんだろう。まる一日おおきな美術館にいて、そんなことを実感する。気に入った作品は、いつか本物を見に行こう。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。