純血じゃない私たち

ルーツは東北です。私は、母方の実家が秋田で、秋田と言えば、なまはげを始めユニークな民俗文化が目立つところだ。ここから日本を見ると、単一民族なんて台詞が大嘘だと思えてくる。お能や歌舞伎、茶道が日本の文化だなんて言うけれど、それは東北とはあまり関係がない。だって「上方」「中央」のものなんだもの。京都や江戸といった街が、そして彼らの生み出した文化が、今いる秋田と地続きだなんて、どうしても感じられない。中央の人たちの言う「日本」から、自分たちの町は完全にとりこぼされ、忘れられているんじゃないか、そんな焦りと不安。

だから、時々日本人っていう言葉が、自分には当てはまらないような、純血なのは本土の真ん中らへんの人たちで、私たちは未だに蝦夷の子孫で、天皇の支配から遠く離れた田舎に生きていて、無駄に原始的だったり神秘的だったりするイメージを押し付けられているみたいだ。でなければ、田舎だから人が温かい、とかいう、勝手なイメージ。まさかね。人間関係が濃い分、下手したら都会よりも、ずっとずっと陰湿ですよ。

例えば、東京のいじめは、ころころターゲットが変わる。私のいた秋田はそうじゃなった。ヒエラルキーは完全に固定されていて、いじめは日常になっていたから、もう誰も文句を言わなかった。蹴っても蹴られても、それはいつものこと。やる側も、やられる側も、決まっている。人間は、馴致能力というものがあって、暴力も暴言も、毎日のことになれば、だんだん慣れていく。そして、「自分はこんな風に扱われても、仕方のない人間なんだ」と了解するようになる。暴言を吐いている側も、「俺はあいつより上なんだから、見下して何が悪い」と思ってる。

「ターゲットが頻繁に変わるいじめによって、子どもたちのメンタルに影響が出ている」そう主張するのは簡単だけど、ターゲットが一生変わらなかったら、それも問題だよ。自分が酷いことをされている、という自覚もないまま、自分にはその程度の扱いがふさわしいんだ、と信じて生きるようになる。だから、傷ついているうちが花だよ。自尊心のない人間は、ひどい扱いを受けて当然だと思っているから、いちいち悲しんだりなんかしない。でも、それってまるで今の東北の姿だ。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。