「存在することに疲れてしまう」

「存在することに疲れてしまう」という表現がある。確かに、そうとしか言い表しようのない疲れはある。あれだけ休んだのにまだ疲弊している、何もしていないのに倦んでいる。何も不自由はないのにうんざりしている……

そしてそういう疲れは、たいていの場合、誤魔化される。

「五体満足で健康なんだから、それだけで幸福だと思いなさい。世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるのよ」
「贅沢言ってないでできることをやりなさい。浮世離れしたこと言ってられる身分じゃないでしょう」

そう言う人たちは往々にして「正しい」。彼らの言うことはセケンノジョーシキだ。彼らはその正しさ故に他人を攻撃し、良心の呵責を覚えることがない。彼らは言う。

「生活していくことを考えなさい。どうやって生きていくつもりなの?金にもならないことを考えてどうするつもりなの?そんなことで悩んでいられるなんて、ずいぶんといいご身分なのね」

世界には、存在することからの避難所がどこにもない。誰もが死なない限りは生きなければならないし、自分が生きることを他者に丸投げするわけにはいかない。その重たさだ。その重さに疲れる。疲れる気持ちが理解されなければ、ますます疲弊していく。

「世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるのよ」……そんなことはわかっている。でもだからなんだ?もっと不幸な人間がいるからといって、自分の苦しみをなかったことにできるのか?

あなたの歯が痛むときに「地球の裏側では飢餓で苦しんでいる子どもたちもいるのです。彼らを思えばあなたの痛みなんてないに等しい」と言われて納得できるだろうか。誰もそうは言わないはずだ。歯医者に行って事情を説明し、痛みが治癒されることを望むだろう。それを責める人間がいるだろうか?

痛みは、それが軽かろうが重かろうが癒されるべきで「もっと苦しんでいる人がいる」という励ましは誰も救わない。そう言うことで自分を善人に見せようとする人はタチが悪い。他人のために指一本動かさず、苦しみをわかろうともしない。そのくせいいことを言っている気でいる。

話が逸れた。

存在することに疲れても、投げ出すわけにはいかない。投げ出すことはつまり死ぬことだ。中にはカフカのように「死ぬために窓から飛び降りる気力もない」という人もいるだろう。(自分もそういう気持ちに見舞われるときがある)そうなると、もう完全に逃げ場はない。

存在する以外に道がない。

そういう切実な感情を持ったら、誰にも理解されない贅沢な悩みだと思う前に、哲学の道に入ってきてほしい。とりわけ近代の哲学者たちは、そういうテーマと向き合う。悩みが軽くなることはないけれど、彼らの言語化された思考に触れるだけで、きっと自分が一人ではないと感じられる。

(自分の専門ではないけど)エマニュエル・レヴィナスはそんなギリギリの感覚と向き合った一人だ。今は色々入門書も出ているので、当たってみても損はしないと思う。文学ならフランツ・カフカやカミュが、そんな問題に寄り添っている。(個人的な見解です)

哲学は取っ掛かりにくい、という人がいるけど、普遍的なものを取り扱っている、ある意味誰もに関係があることをやっているわけで、その豊穣な世界は険しくて難しいけど、知らずに済ませるには惜しい世界です。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。