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非合理な合理、資本主義の終わり

スマホの進化も頭打ち、と中学の同級生がツイートしていた。確かに周りでも「新型スマホって言ってもカメラの性能がちょっとよくなるだけ。何も面白くない」という意見があり、そんなもんかなあと思う。

スマートフォンの進化もそうだけど、本当に頭打ちなのは資本主義のほうなんじゃないか。(別に共産主義がいいとか言ってるわけではない。思想主義アレルギーの人もいるかもしれないが、例によって体温の低いノートなので安心して(?)読み進めてほしい)

「合理性の非合理性」という言葉があって、これは例えばこういうことだ。「物は安いに越したことない」と合理的に考えて安物ばかり出回った結果、お金が健全に回らなくなって皆が貧しくなる。あるいは、「自然を開発して人間の住む場所にしよう」と自然破壊を進めた結果、人間が使う資源も擦り減ってしまう。そんな風に「よかれと思って効率化したら、かえって首が絞まった」現象を言う。

いま自分が資本主義に対して感じているのも「結局はこれ、自分たちの首が絞まるよね」だ。人を幸せにするシステムではないし、健康で文化的な生活を保障する体系でもない。それはそうだ。資本主義は成長を続けるのが仕事であって、そこに組み込まれた人間の「主観的な幸せ」など知ったこっちゃないのである。

ロンドンでは、効率化の果てに警察組織までもスリム化され、人手が足りないので窃盗くらいでは誰も来てくれない……なんていう話も聞く。合理性の非合理性。より効率的によりコストを削減することが正しくなった結果、人々の安全が脅かされるようになりました……なんて、完全に寓話でしかない。

資本主義に対抗する気はないけれど(いまもその中で暮らしてるから)、従順に従いたいわけでもない。コストがかかろうが非効率であろうが、安全を守るあらゆる営みは大切だ。人間らしい暮らしがしたい。お金がかからなくて効率的だと説得されても、毎日冷凍食品を食べるのは嫌だ。生野菜を適当に切って、自分で味付けをして食べたい。できたら調味料はいいやつがいい。三年以上寝かせた醤油を使っておいしい寿司を食べたい。

食い意地を張った文章になってしまった。だけど、効率化に抗って人間らしさを守ることは、きっとそのへんから始まるんだと思う。いくら非効率だと言われようが、私はこれがしたいんだよ、と言うこと。そして実際にやること。

ジョージ・リッツァは、社会が「合理性の非合理性」に陥るのを防ぐために、著書の中でこんな提案をしている。

・本物の陶器と金属食器を使うレストランを探しなさい。環境に悪影響を与える発泡スチロールのような素材を使うレストランは避けなさい。

・こんど、あなたがメガネを必要とするときには、たとえばパールビジョンセンターではなく、地元の眼鏡の検視士に頼みなさい。

・もっと一般的に言えば、テレビを見るのはやめましょう。あなたが民放番組を見なくてはならないなら、コマーシャルのあいだは音を消して目をそらしなさい。結局のところ、たいていのコマーシャルは、合理化の価値観を押し売りする企業のものなのです。

などなど。

資本主義に抵抗の旗を掲げるわけではないけど、やっぱりそれはそろそろ機能しなくなってきている。私たちが何かをする目的は、効率化のためじゃなく、人間らしい幸せな、健康で安全で文化的な暮らしをするためなんだ──という一線を、とりあえずは守っていきたい。

引用は、ジョージ・リッツァ『マクドナルド化した社会 果てしなき合理化のゆくえ』正岡寛司訳、早稲田大学出版、2008、374-376頁

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。