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暗黙のルールと自由

暗に陽に「そうするのを望まれていること」が世の中には存在する。「表現の自由」「思想の自由」「愚行権」とか言うけれど、結局ひとは、自分が許容できる範囲のことしか許容しない。しないし、できない。

例えば、小学校の頃「戦争」をテーマに作文を書かされた。何を書くべきか、誰もが知っていた。戦争は悪いです悲惨です、平和は素晴らしいです、これを築いてくれた先人たちに感謝します、過ちは繰り返しません。それは何も間違っていないし、どれもが美しい言葉だと思う。だけど、誰もが本当にそう思っているかと言えば、たぶん違う。

中には「この戦闘で使われた兵器が大好きです、機会があるなら触ってみたい」なんて生徒もいれば「どうしたら平和を守り抜けるのか、まず考えるべきです。こんな作文を書かせるよりは外交についての授業をするべき」という子もいたかもしれない。あるいは「戦争は、空の上から見ていたら楽しいのだと思います。性格の悪い神様がいるのを感じます」なんて意見も。

でも、それらはどれもある種の検閲の末、黙殺される。先生たちが見て「これは駄目。書き直しなさい」と赤ペンを入れれば、そうせざるをえない。結果的に、作文集に並ぶものはどれも似たり寄ったりになる。

作文に限った話じゃない。それはあくまでも例だ。望まれていることを望まれているようにできないと黙殺される。どこでも起こりうる話だ。家庭でも社会でも会社でも。

そういう体験を繰り返して、いつしか「他人が自分に何を望んでいるか」を基準に考えるようになる。自分が何を考えているかはどうでもいいと知るようになる。大事なのは「自分のもののように見える、実は相手が望んでいる行為」を差し出すことでしかない。

悪い文脈で書いているようだけど、これは本当に大切な能力だと思う。誰かの欲しいものを察して、それがさも自分の意志であるかのように相手に差し出せるのは、とても高度な媚びだ。相手に責任を負わせることなく望まれたことを望まれたようにやってのける。選ばれた人間の媚態。

ただ、それはやっぱり「本心で思っていること」とは違う。嘘を嘘とわかっていているならいいけれど、「媚び」と自分の本音を勘違いすると苦しくなる。「私はこうしたいはずなのに(実は他人の望み)、なぜかしたくない(だって本心じゃないから)」と、自分が引き裂かれる現象が起きる。

「平和は素晴らしいです」と書かないと、作文は突き返される。それは仕方ない。だけど、本当は何を書きたかったのか、自分だけはちゃんと覚えておくのがいい。空の上の性格の悪い神様について語りたかったのかもしれない。あるいは、戦闘機がいかにかっこいいかを書きたかったのかもしれない。あるいは、日本における教育者の無能をぶち上げたかったのかもしれない。

そのどれもが当然のように却下されても、それは「そんなこと考えてはならない」というメッセージとは違う。ただ、それを読んだ人たちの望みと違っただけ。ただ、自分に望まれたものを当てられなかっただけ。結果的に、相手が満足いくものしか受け取ってもらえないとしても、自分の考えを「なかったもの」にしなくていい。だって本当にそう思ったのだから。それを「悪い」「異常」「駄目」と思う必要はない。

本当の「自由」は、多くの人にとってとても受け入れがたいものなのだ。だから「なんでも好きに書いていいのよ」と言った人が「私の思った答えと違う、書き直せ」と言ってくることはある。「自由」はいつだって難しい。自分のそれは認めてほしいけど、みんな他人の自由は制限したがる。私がそれを受け入れる、受け入れないに拘わらず、自由って「そういうもの」なのだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。