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「いる」と「いない」の間に

あるものはある、ないものはない。(パルメニデス)

あるものはある、ないものはない。そう簡単に言うけど、そんなに簡単なものだろうか。例えば、もう死んでしまった人がいるとして、その人はもうこの世にはいない。だけどそれは、「死んだらもう人は存在しません、おしまい」で済まされるものなんだろうか。

知人の女性が以前、話してくれたことがある。
「私は祖母の顔って見たことがないけど、母を通じて私に、いろいろなものを引き継いだんだと思う。生物学的な遺伝じゃなくて、もっと目に見えないもの。でも、人の中にあって、受け継がれているもの。私は母親が持っていたものを、きっと自分の娘にも引き継いでいる。だから、そういう意味では生きてるの。祖母なんてとっくの昔に死んでるけど、でも死んでないのよ。母にとっても私にとっても、受け継がれて生きてる」

彼女が本当は何を言おうとしたのか、私は正確に理解できている自信がない。だけど、この話を糸口に何かを敷衍することはできる。

ある人が死んだ。その人はもう「いない」。だけど、その人を生前、知っていた人にとってはどうだろうか。亡くなった彼/女を思い出して「あの人は、私がこれをしたら喜んでくれるだろうか」と考えて、実際に行動に移すかもしれない。あるいは、「こんなことをしたら悲しむかもしれない」と考えて、何かを思いとどまることもあるだろう。

それは「いる」と「いない」の間の存在だ、と思う。亡くなったその人は、単に死んでおしまいで、もう誰にも影響力を及ぼすことのない存在とは違う。まるで生きているみたいに、あるいは生きているときよりももっと、誰かの中に存在している。それは、ほとんど「いる」ことなんじゃないか。

あるいは、神様がいるか、いないかという話になったとき。仮に神様がいないとしても、誰かが敬虔に神様を信じて、信心深く生きるのだとすれば、その人にとって神はいるも同然だ。神様はいるかもしれないし、いないかもしれない。だけど「いる」と信じる人にとっては、限りなく実在に近くなる。それは──仮に神様が本当はいないのだとしても──「いる」こととほとんど同じじゃないだろうか。

あるものはある、ないものはない。そう言ってしまえばそれまでだ。だけど私たちは、その中間の存在とずっと付き合って生きている。この文章を書いている私もまた、読んでくれているあなたにとっては、本当にいるかどうかわからない存在だ。いるかもしれないし、いないかもしれない。でもこうやって、画面の上に「いる」。書かれた文章で何かを語っている。

存在と非存在の間。でも確かに、生きている人に影響力を持っている何か。そういうものについて、ずっと考えてる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。