誤解があります

あらゆる言葉は誤解される可能性を含んでいる。言葉は事象を正確に書き写すことができないから。そして「誤解」が悪いものだという前提も、それはそれでなんだか違うような気がする。森絵都の小説にもあったけれど──「誤解は人生を彩る」。

誰かが表現したことと、それを聞いた人の理解が完璧に一致することはない。人はコミュニケーションを取るとき、いつもわずかなズレの中にいる。相手が見ている世界と、自分が見ている世界との。でもそのズレは、あってもいいものだし、あって当然だし、誤解という言葉で片づけるには、あまりに豊かなものを含んでいるのだ。

哲学っぽい言葉遣いになってしまった。哲学の文章を読んでいると「豊か」とか「貧しい」とかいう語を度々見かける。これは、経済的に裕福か否かという意味を離れて、「豊か=含蓄に富んでいる。様々な色合いを含んでいる」であり、「貧しい=単色で無機質。意味が乏しい」というニュアンスで使われることが多い。場合によっては、本当に金銭的な多い少ないを言ったりするけど、おおむね「含まれているものが多様であるか、乏しいか」の意味合いで出てくる。

話が逸れた。

そのズレを、会話の中で解消できることもあるし、できないこともある。「どんなに説明してもわかってもらえなかった」という悲しい絶望もあれば、「話してみたら、歩み寄る余地があった」とわかることもある。言葉は誤解を生むけれど、それを解いていくこともできる。終わらないいたちごっこみたいだけれど、それが人と会話するっていうことなんだと思っている。

それを逐一、思い出すようにしているのは、コミュニケーションが誤解を前提としていることを忘れがちになるからだ。話せば、それでわかってもらえているような気になる。「だって伝えたでしょ」と思っている。でも、相手は相手の世界の文脈で話を聞いているから、ちゃんと理解されようとするなら、相手の言葉を話さなきゃいけなくて……

そう考えると、人は皆ちいさな自分だけの国に生きていて、そこの言語もそれぞれ別なのだと思う。たまに、話のわからない人を「外国語で喋ってるみたい」と表現するけれど、たぶん皆すこしずつ外国人なんだよ。皆それぞれ「自分」という一個の国に住んでいるんだ、国境線が見えないだけで。1人1人、ルールも違えば言葉も異なる世界に住んでいる。

でも、そのズレをなくして誤解を一掃することがいいことだとは全然思わない。誤解は人生を彩る。言葉の誤解は、そのまま解釈の豊かさだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。