言葉のパラレルワールド

上下左右。ただ空間的な方向という意味ではなく、それは言葉によって、よいものと結びついたり、間違ったものと結びついたりする。

「幾何学的な空間においては、上も下も同じくらい価値があって、同じくらい価値がない。でもどうですか。これらの言葉は、身体感覚と思いきり結びついていますよね」と先生は言った。

「人の上に立つ」というときの「上」。あるいは「下手に出る」というときの「下」。上司とか部下なんていう言葉もそうですか。力を持つ人に「上」っていう字が使われて……。あとは「左巻き」とか「右に出る者はない」とかね。全部、意味がついているわけですよ、単に方向を示しているわけではない」

『言葉には意味がある』。広辞苑第六版のセールスコピーを思い出す。上下とか左右とかいう言葉は、ただ方向を指すものとしては捉えられない。それはわかる。でもなんで、頭のほう(上)が、足のあるほう(下)よりも尊く、有り難く、そして権力と結びつく感じがするんだろうか。あるいは、どうして英語でも右は「right(原義は「まっすぐ、正義」)」と呼ばれて、左は「left(原義は「弱い、価値がない」)」なのか……。

簡単に答えを出すことはできない。ただ敢えて応答するなら、それが「身体感覚との結びつき」ということなのだと思う。右手は多くの人にとって利き手である。器用だし、思った通りによく動く。それに対して、左手は不器用で、右手に対する補佐に留まるところがある。だから、優れているものは右に置かれ、正しさや正義と結びつく。

数直線でも、ゼロから右側にあるのが正の数、左に行くと負の数である。身体感覚は数学の世界にも入り込んでいる。結局ヒトは、体から離れて考えることなんかできないんじゃないか、と思わされる。言語を司る脳そのものが体に組み込まれているんだし、死なない限り体を離れることはできない。そして死んだらもう思考することはできない……。

もし人間が、もっと別の体を持っていたら、と考える。左手も右手も同じように器用に使えていたら、その世界の数直線はどうなっているのだろう?上と下が同じ価値を持つ身体を持っていたとしたら、上司は「上」司でなく、なんと呼ばれていたんだろう?権力を持っている人だから力司(リキシ)?

その世界で「人の上に立つ」と言ったら、きっと通じなくて、物理的に人が人の上に乗っているところを想像されたりするんだ──。

などと、言葉のパラレルワールドにまで想像が膨らんでしまう。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。