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それ以前のあなた

「命あっての物種」という諺、昔は漢字変換ができなくて
「命あってのものだね~」「そうだね~」
という、同意を求める言葉なのかな……と思っていた。「ものだね」が「物種」であると理解したのはいつだったか。

そういう記憶はすべての人にあるらしくて
「童謡『赤い靴』の『い~じんさん♪』て言うのは、異人さんじゃなくて『いい爺さん』だと思ってたんだ」とか
「小さい頃は『汚職事件』を『お食事券』だと信じていた」とか
みんなひとつはそういう話を持っている。

そういう話をするたび「そうだよなあ」と思う。
当たり前だけど(そして普段は忘れがちだけど)私たちは、生まれた時から流暢に日本語を話すわけじゃない。日常生活の中で、話されている言葉を聞いて、意味もわからないまま真似してみたりして、使ってみたら「それは違うよ」と笑われて、作文に赤ペンを入れられたりしながら、日本語を身に着けたのだ。

最初は──赤ん坊だった自分にとっては、明らかに不慣れで使い慣れない道具のようだった言語。大人になると、とりあえずは当然のように使えるようになるの、なんだか不思議な感じがする。一個の言語を学ぶのだから、そりゃあ誤解も勘違いも生まれるよな、と思う。

誰にとっても、言葉は最初「外国語」なのだ。自分が使いこなせない道具、他の人が使っているのを見よう見真似でどうにか自分のものにしていく言葉。自分は日本語話者として生まれた……わけではなく、日本語話者に「なっていった/今もなりつつある」。最初から日本人なわけじゃなくて、教育や言語の習得を通じて日本人に「なった」、そんなことを考える。

子どもは世界中どこでも、人種や国籍関係なくすぐに友達になる、とよく言われる。それは、彼らがまだ何者でもないからじゃないか。何かまだ、何かになりつつあるところで、強いて言うなら彼らは「何者か以前」という同じ国の中にいる感じがする。生まれる前に誰もがいる場所があるとして、生まれたばかりの子どもは、大人よりも遥かにその場所近くに住んでいる。それから、その場所を徐々に離れて、ちゃんと俗世で「○○人」と規定される何者かになっていく。

大人になっても素朴な──国籍や人種などに捕らわれていない──人たちは、そういう子どものときにいた場所を、いまでも覚えているように見える。何者かになる以前、「日本人」になる前の話。その頃の柔らかくて頼りない感性を守りながら大人になれた人たちは、それだけでけっこう幸福なんじゃないか。多くの人が失ったものを、すごく自然に保存していて。

その感性は「子どもっぽい」とか「大人になりきれていない、素朴すぎる」「何者かとしての矜持を持て」という声につぶされがちだけれど、あの柔らかい感性なくしては、できないこともあるんじゃないかな……。
言葉をある程度あつかえる「大人」になったいま、私はそんなことを思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。