見出し画像

引用の羅列【コーヒーブレイク】

好きな言葉はたくさんある。そのひとつひとつを丁寧に書くと、時間も紙幅も取る。他人の文章の引用で埋め尽くすなんて芸がないけれど、今日はそんな「最近、気に入った文章」の数々。

例えば、東京メトロが駅で配布している小冊子に書かれた、喫茶店についてのエッセイ。

春の外出自粛でなにが辛かったといえば、外へコーヒーを飲みに行けないことだった。食事は地味に自炊でなんとかなっても、場所を変えて一服し、気分転換する時間は、自分で淹れたコーヒーでは代替できない。

都市社会学には、自宅でも職場でもなく、心地よく過ごせる第三の場所「サードプレイス」という概念がある。私は喫茶店マニアではないが、人が健全な社会生活を営むため、いかに重要な存在か身に染みた。

畑中三応子「TASTING BOOKS」, METRO MIN., VOL.25, NOV.2020, p.35

あるいは、ツイッターのプロフィール欄に、なんだか苦味ある名文が現れることも。つぶやき系SNSの特徴を文学的に表現していて、思わず保存した。

とくべつ好きってこともないけどさ。おこづかいもなくなったし、金もかからず、くたびれず、はらのへらない遊びとなると、これしかないもの。

もちろん、小説の中にも好きな見解や表現はたくさんあって、定番だけどポール・オースター。

「(…)私としてはいつだって、信心深いお人好しより手練手管の悪党を歓迎するね。いつもルールを守ってプレーするとは限らんかもしれんが、とにかくガッツはある。そしてガッツがある人間がいるかぎり、世の中まだ望みはあるのさ」

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』柴田元幸訳、2020年、新潮文庫、pp.77-78

「嘘がつけない人間よりも、嘘をつくことができるがつかない人間のほうが尊い」っていう話、どこかにあったような気がする。人が好きなのは、生まれつき悪いことができない人より、「悪をする能力があるけどしない人」なのだ、きっと。

そして、自分の専門分野の哲学からは「存在」をめぐるこんな文章。

存在とは、存在するという禍いなのだ。

エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、ちくま学芸文庫、2019、p.42

存在することって、そもそも「正しい」ことじゃないんだと思う。人が生き残るっていう行為それ自体が、誰かを傷つけ、迷惑をかけ、争い、誰かの持ち分を奪うことを含んでいるんじゃないか、って。この文を書いたレヴィナスの意図とは少し違うかもしれないけど、とにかくこの人「存在する」ことそのものを良いとは思っていないフシがあって、それにはなんとなく同意してしまう。

今日は、好きな引用の書き溜めをちょっとだけ投稿。コーヒーブレイク☕

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。