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山口茜「隙き間」と『砕かれた四月』ー市場化、復讐、女性


 サファリ・Pの劇「隙き間」を観た。原案はアルバニアを代表する小説家のイスマイル・カダレの『砕かれた四月』だ。同作はブラジルで映画化されている。映画の原題は”Abril Despedaçado”で、砕かれた四月との関係が明示されているが、英題および邦題は「ビハインド・ザ・サン」と悪訳されている。
 原作の妙味や映画化の功罪について、そして演劇版のみごとな演出については後日述べるとして、山口茜が上演台本と演出を手がけた本作では、2作とも異なる解決の糸口を提示した。
 見終わったすぐは、2作で示唆されていた、市場化によって復讐の連鎖が実際の戦争につながったり、また家族のなかでの暴力へと内在化してしまうモチーフをなぜ描いていないのか、戸惑いをおぼえた。
 しかし、そこにこそヒントがあったのだ!上演後のトークで、上の戸惑いを興奮しながら話してしまって、質問としては伝わらなかった…
 登壇された小澤英実さんが、原作と対照的に、身体性を顕現させたことを評価し、次の質問で山口さんが「母親として子どもを残してウクライナに入れない」と話していて、ことここにいたってようやく糸口が観えた。原作では復讐の終結を望む主体が作家の妻として描かれていたが、さまざまな巡り合わせから、解決には寄与しなかった。映画では彼女が旅芸人の継娘(ままむすめ)に置き換えられていて、安易なラヴシーンと海の表象になりさがってしまった。だが、この劇では作家の妻は、死者の総体のような存在に対して、敢然と立ち向かう女性へと変貌した。復讐の応酬がいまだやまないことも終幕で示されているが、もはや小説との逕庭はあきらかである。
 『砕かれた四月』では増長した作家が復讐の応酬を美化して、『ハムレット』以上の悲劇と讃嘆してみせている。その思い上がった鼻は折られるわけだが、(なお、上演では射殺されている!よくやった!)私たちはウクライナのゼレンスキー大統領にまんまと”To be or not to be”が英国議会で引用され、満場の拍手をかっさらってしまった事態を目の当たりにしている。原作ではコソヴォ紛争の勃発もかすかに示唆されていたわけだが、悪化した状況は長く膠着するだろう…
 しかし、『砕かれた四月』が「隙き間」へと文脈が合流することで、新たな展開に光明がさした。それは、復讐を加速させる男性的な諸原理に対して、女性的な原理で立ち向かうことだ。お里が知れそうな口ぶりになってきたので、このへんでよしておこう。女性的とか原理とか云う言葉を安易に使っていいのかためらわれるが、それはこれからじっくり考えてみよう。

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