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ひとり暮らしレポート 二元論

さいきんのわたしの中のテーマは、二元論。
どちらかに属す、どちらかに振り分けられる、どちらかで答える、ということに対して「わたしはわたし」という明瞭たる自信と答えを突き付けるためにはどうしたらよいかを考えている。
SPURでアミティーの記事を読んでから、なんだかずっとぼんやりしていた思いが、すこしだけ輪郭を帯びたような気がした。

ここ一年くらい、ショートヘアになったわたしは、パリジェンヌを目指しながらも、どこかアンドロジナスな容姿にも近づきたいと思っていた。意識的であり、無意識的にも。
アミティーの「ジェンダーの話は難しくなりがち。でも、そんな難しく考える必要もないと思う。男か、女かという二元論ではなく、私は私として見てほしい」という言葉に、なんだか励まされる思いだった。わたし自身は、自認性は女で、ボディも女だけど、なんだか「女」というくくりにいることがとても窮屈で、そういう意識を持ち始めてからなんだかだんだん痩せていってもともと小さい胸はさらに小さく、おしりも丸みがなくなって、かわいそうな少年のような容姿になっていった。お洋服もボディラインを拾わない、ガリガリだと気づかれないものを選ぶようになったり、下着も盛らないものをつけたりしている。女の子のわたしは、中性的なわたしに羽化しようとしている。でも、それって、なんだかかっこいい。

違国日記を読んでいて、えみりが「あたしはただ、あたしでいたい。なりたいあたしになりたいだけ」と搾りだすように朝につたえるシーンも、わたしの中身に色をつけたひとつ。世間一般は、やっぱり二元論を押し付けてくるので、正常か異常のどちらかに振り分けようとしてくる。もし、それで自分の精神状態が落ち着くならば、それはそれでいいとおもうのだけど、それが心を真っ黒に染めるものならば、逸脱した存在のままでいいと思う。わたしは幼いころからずっと逸脱してきた。まわりはそれを眉間にしわ寄せて眺めてきたけれど、それでもわたしは逸脱を選び続けている。傷ついていないわけない。二元論の中に納まる自分でいたかったと思うこともある。それでも、それが選べないのがわたしであり、きっとずっとそう。わたしはわたしでしかないから、わたしはわたしらしく生きていくしかない。それがわたしらしくて良いと、言ってくれる人が、ひとりでもいるから、それでいい。それだけがわたしの荒野の進むべき道。My bright…