校正紙(ゲラ)を汚すということは

著者にとって校正紙(ゲラ)とは

 数日前から、校正者界隈で話題になっていることがある。
 元々は、著者校で「ネコにかじられてしまいました。すみません。」と付箋が貼られたゲラの写真を、編集者が「猫さんも校正しようとしてくれたんでしょうか」とX(旧Twitter)にアップしたのが始まり。どう見ても「和みネタ」としての投稿であった。
 この投稿に、ある校正者が「著者本人のゲラだったから微笑ましい事件扱いされているけど、校正者がお預かりしたゲラだったら絶縁されるよね」と、エアリプした。
 これに、本日までに83件の「いいね」がついた。わたしもつけた。「いいね」をつけたのは、おそらく校正者たちだろう。
 本というのは、著作権を有する「著者のもの」。ゲラも当然「著者のもの」なので、著者だけは何をしても許される。当然だ。

校正者にとって校正紙は

 だが、校正者にはゲラを汚すことは許されない。よって、ネコはもちろん、飲み物を同じ平面に置くことはない。
 実際に、「(校正者は)飲み物は絶対机に置くな!と厳しく言われたものですが今は言われないのか飲み物とゲラを同じ机に置きつつ作業する方も見かけますね」というエアリプもあった。
 わたしは編集ライターとして修行した30年前に「校正紙を汚してはいけない。コーヒーをこぼすなんてもってのほか」と仕込まれたので、「(著者校は別として)ネコがかじる? ありえない……」と思った。
 このように訓練された30年前は、まだ写植の時代。Macで組むDTPは登場していたが実用レベルではなかった。文字データがそのまま版になるなんてことはなかったのだ。つまり、データではなく、「紙そのもの」が制作担当者全員に回っていったのだ。
 そう、校正紙は著者、編集者、校正者、組版者の全員に回る紙である。それを誰か、とくに校正者が汚すなど考えたことはなかった。
 現に、校正者の友人から「ゲラにコーヒーをこぼしてしまい、謝罪して納品したが、そこからはもう仕事がこなかった」と聞いたこともある。
 わたしたち校正者にとって、校正紙は「成果物そのもの」なのだ。大切に扱うのは当然だと思っていた。

編集者にとって校正紙は

 ところが、ある編集者が反論した。「汚れたゲラはプリントし直して書き込みを転記したらいいだけ。言ってしまえばゲラは単なる作業用メモ。なぜそこまで著者や編集者に気を使う必要があるのでしょう(転記する手間は別として)」と。
 実はこの件、友人の編集者も「(ゲラが汚れたり紙がぐちゃぐちゃになってしまったら)プリントし直せばいい」とあっさり反応していた。
 2人の編集者の反応には、少なからず驚かされた。
 ああ、編集者にとってはそういう認識なのか。編集者にとっては、誰かが(たとえ、校正者が)校正紙を汚そうと別に大した問題ではないのだろうか。
 さらに、「プリントしなおして書き込みを転記したらいいだけ」と投稿された編集者は「転記する手間は別として」とおっしゃっているけれど、これも「別として」というほど軽い問題なのだろうか。
 ひとつめ。誰が転記するのか。社内校正者か。社内に校正者がいない会社なら編集者かそのアシスタントだろうか。
 工程が増えればミスの可能性も高くなる。「汚したら転記すれば」という認識で校正紙を扱い、「汚れたから転記しよう」と簡単に考えているチームにいる人が、一言一句間違いなく転記して、それが正しいと間違いなく言えるのだろうか。
 また、こんなことを言っている校正者もあった。「制作陣全員の共通ツールとしてゲラはあるわけです。だから全員が意を汲めるよう校正者は簡潔にして達意に書くことが求められるわけですが、一人だけ汚しても別にいいじゃんという意識の人がいるのはやはり問題です。転記すれば済むというのも誰が現実に転記するかと考えるとこれもまた校正者でしょう。」

自分はどう考えるか

 上記の投稿を考えてみても、校正紙(ゲラ)というのは制作者全員に回る共通ツール。校正者はそれを「一工程担当者として、お預かりしている」立場である。
 それを「汚しても別にいいじゃん」と思っている人がチームにいたら、わたしはそのチームとは仕事をしたくない。
 ゲラを汚さないように扱うという緊張感もなく仕事をするような人とは、一緒にチームを組めない。わたしの考えは間違っているだろうか。
 もちろん、誤って汚すことは誰にでもある。校正紙で指を切ってしまい、その血が紙についてしまったという投稿も見かけた。だがその校正者は慌てて血液を吸い取り、しかも漂白剤で染み抜きして納品している。
 こういう感覚がふつうだと思う。ここまですれば、相手(編集者)にも誠意が伝わる。責められることはないだろう。わたしも「ああ、誰にでもそういうことは起こる」と思った。
 というわけで、この件についてわたしが思うことは以下のとおりである。

著者にとってゲラは「自分のもの」。何をどうしようと自由。
編集者にとってゲラは「作業用メモ」。何が書いてあるかわかればよい。
校正者にとってゲラは「成果物そのもの」。きれいであればきれいなほどよい。

 最後に。工程の最終に来てゲラを見ながら作業するDTPオペレーターにとってゲラは「指示書」であるはずだ。わかりやすいほどよいし、汚れていない方が見やすい。ミスを起こしづらい。そうではないのだろうか。

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