テキストのミスを「誤植」と呼んだ時代があった

 昨日、組版者のこんなツイートを読んだ。

支給テキストに起因する誤字を「誤植」と言われることに怒りさえ感じます(中略)誤植ではなく「原稿通り」なのですから…元の原稿に瑕疵があり、それが色々なところをすり抜けモノとなってしまったというだけです

あるツイートから

 わたしはこれまで、本にタイプミスから来る誤字などがあることをずっと「誤植」と呼んできた。
 20代のときにメーカー社内の編集ライターをやっていた。DTPが始まってはいたけど「まだ、全然使えない」状態だった。原稿は、原稿用紙やワープロから印刷したものを「Faxで」入稿していた。「写植」ということばが生きていた時代である。
 当時は、原稿は正しかったけれども出来上がった本にミスが見つかると「誤植」と呼んでいた。これは間違いではなかったのだろう。原稿ではなく「植字」プロセスのミスだったから。

データ入稿の時代の文字ミスはだれの責任か

 だが現在はそうではない。文字原稿はテキストデータで送る。組版者はそれをDTPソフトを使って、さまざまな設定をして版に「組んでいく」のが仕事。テキストを打つのは著者やライター、編集者である。
 当該テキストが間違っていたら、もちろん「打った人(著者、ライター、編集者)」の責任である。それを「誤植」と呼べば、「植字」の間違いのように聞こえる。つまり、「データ原稿」を「紙」という物理的なものに変換したDTP担当者の責任のようであると。
 ここに、この組版者の方は怒っているのである。

「失礼な言い方」に人一倍敏感であるはずのわたしが……

 わたしは、「失礼な言い方」に対してとても敏感に反応する。自分の特性もそうであるし、仕事が「校閲」であるからこれは当然だろう。以前、アルバイトを「下働き」と呼ぶ編集者に怒りを覚えてこんな投稿をしたくらいだ。

 その自分が、校正紙や本のミスをずっと「誤植」と呼んできてしまった。9年前に編プロにいたときも、7年前からオンサイトで出版社に常駐していたときも。 
 ことばに対する感度が足りなかったと、やっと今日気づいた。自分や、自分の立場以外の人に対する「失礼さ」の感度がまったく鈍かったと。

各担当者の立場に立って「失礼さ」を考える

 わたしは、校正紙を校閲するとき「失礼な表現」にはかなり気を配ってきたつもりである。それなのに、文字のミスを「誤植」と呼んでいた。あまりにも無神経だ。
 自分、および自分が属する立場(職業)に対する「失礼さ」の感度だけが高いのでは、校閲者として失格である。
 もちろん、すべての「失礼表現」を拾うにはわたしは未熟すぎる。だが、せめて出版業界、印刷業界で使われる語、自分が頻繁に使う語については、誰が読んだり聞いたりしても、「失礼な」と思われない表現を使うべきであろう。
 当面の間、「この語は使ってもよいか」「関係者が読んで『失礼』と思わないだろうか」とひとつずつ自分に問いながら記していくこととしよう。もちろん、仕事上でのテキストのミスは「誤字」と呼ぶのは言うまでもない。

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