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ファクトチェック~福岡伸一『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』感想

 福岡伸一(自称「福岡ハカセ」)の『ルリボシカミキリの青』を数年ぶりに読んでいたら、こんなくだりがあった。別の本でハカセが、自分の研究生活の出発点となったマンハッタンを書いた箇所がある。ノスタルジーに浸りつつ、観光船の進路に沿って移り変わっていく風景が描写されている。
 原稿を書き、校正刷りが出た。著者にゲラが戻ってきた時、マンハッタンの地図のコピーが貼りつけられており、校正者のメモに「見える順番が違います」と書かれていた。
 だがハカセは、この指摘のとおりであると認めながらも、書いたときの流れを尊重してほしいと、そのままにして戻したという。
 よくある話ではある。けれども、ハカセは愛がある著者だなぁと思ったのがここからだ。

校正者さんは、執筆者のように自己陶酔していない。編集者のように社交的でもない。読者代表でありながら、ストーリーに没入することを自ら禁じ、かといって表層的な書き間違いや表記の不統一だけを探しているわけでもない。深すぎず・浅すぎず、一定の深度を保ちつつ、水中のタナをスキャンして魚を探る熟達の釣師のような存在なのだ。

同書より引用

 校正者にとって、これほどありがたいことばがあるだろうか。この本を最初に読んだときわたしはまだ会社員で、校正の仕事はしていなかった。だから読み飛ばしてしまっていて、今回再読するまで気づかなかった。
 ファクトチェックが校正者の仕事であることは『校閲ガール』以来、一般人にも知られるようになった。実はファクトチェックは、翻訳者や翻訳チェッカーの仕事でもある。言いかえると、著者の原文の裏を取るということ。原文が間違いとわかっても訳文で直すかどうかは、もちろん、上記のハカセの言と同じように別問題ではあるが。
 以前翻訳校閲を担当した本で、ファクトチェックで迷宮に入りこみ、抜けられなくなったことがある。大抵は「ここまで調べて判明したことと不明だったこと」とメモをつけて返すのだが、その本は翻訳者の今後の方向を決める非常に大切な訳書となることがわかっていたので、できる手段はすべて講じておきたかった。
 最後は「この情報が載っているかもしれない」雑誌を求めて母校図書館まで行って閉架に入り、文字通り埃にまみれてエビデンスを探した。その本はやっと見つけたが、目的の記述は載っていなかった。
 気落ちはしたが、「ここになければ、もうどこにもこの情報はない(わからない)」というところまで詰めてあった。わたしは迷いなく「○○の本を調べたが不明」とコメントして戻した。
 あのときも、たとえそこまでして調べなくとも、出版された本の語句は同じだったかもしれない。だが、とことん調べたうえで、ハカセのように、書いた時点での思考の流れを尊重して事実とはあえて異なる風景としたり、ここまで調べてわからないならばこうするしかないと、不明なところを明らかにして出版にもっていくことが無駄だとは思わない。
 ハカセはこのエッセイを「書き手、編集者、校正者。この間のてまひまが活字というものを支えているのである」と締めくくっている。
 そう、「てまひまが活字を支えている」のである。

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