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人間の弱さと暴力性について考えた話。

暴力は嫌いです。

と、思うし言うのだけれども。
本当に心から憎めているのか、を考えるきっかけになりました。

まだ20代。
正直将来の日本を、私が生きるプラットフォームとしての国の状態をどうしても憂いてしまうし、早く政治家の世代交代が進んでくれと祈った日もあります。

ありがたいことに、私はいまそれなりに生活させて貰っていますが、例えば本当に明日食べるものに困っている状況だったら。それが政治的な施策の結果として、回り回って自分の解雇に繋がっている面があったのなら。そして、目の前に使える銃があったら。

本当に私は同じことをせずにいられたのか。(もちろん、今回の犯人がそういう人だと言っているのではありません)
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私は元々教育学部で、教員を目指している時期がありました。

しかし、諦めたきっかけがいくつかあります。
その一つが、私が持っている暴力性に気づいたからです。

教育実習中、席を出歩いてしまう「学校一問題児」と呼ばれてしまっている子がいる教室に入れて貰いました。
その子と関わる中で、「いい加減にして欲しい」「黙って座れよ」と思い苛立つことが多々ありました。

私自身、問題児的に扱われる瞬間も経験したことがあり、「絶対そういう子の味方になれる先生になろう!」と思っていたのにも関わらずです。

今思えば、先生をやらない言い訳に使っていた部分もありますが、理想論では語れない、現実に向き合うことを最初に教えてくれた経験であり、自分の黒い部分を確かに感じた瞬間でした。

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「火垂るの墓」という作品があります。

あれは、戦争の悲劇を描いたものだと認識されがちですが、本来はそうではないとする解釈も一定広まっています。

清太の高いプライドと、コミュニケーション能力のなさが生み出した悲劇を描いているのだと。

詳しくは岡田斗司夫さんらへんが解説している動画とか見て欲しいですが、確かに、清太には助けてくれる親戚がおり、親が残してくれた現金もたくさんあり、そして時代設定的には、戦争の終盤〜戦争が終わって、人々の生活が徐々に戻り始めているのです。

では、どうして清太と節子は死んだのか。

「助けてください」が、言えなかったから。
人に助けてもらう術を知らなかったから。

助けてくれる人もお金も環境もあったのに、1人困窮していったのだと。

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最近、#大愚和尚 という方のYoutubeをよく見ます。

そこでされていたバガン王朝の話がとても印象に残っています。https://youtu.be/qPUD8r3AWp0?t=397

以下は私なりの解釈かつ印象に残ったことを抜き出したものとして読んでいただきたいですが、

殺人といったことを罰するために法は必要だが、あくまで本当に最悪のことが起きた時の砦にすぎないようにしたい。そのために、警察や法制度を強化して取り締まるのではなく、仏教を広め、経済的に豊かな人を増やすための施策を打ち続けたのだという話でした。

いかにみんなを罰するのかではなく、いかにみんなでより良く生きる世界を作っていくのか。
ダメを増やして切るのではなく、いいねを増やして豊かにしていったのです。

最近は、ハラスメントや性差別に随分厳しくなりました。
これまで非常に緩く、泣き寝入りも多かった分野ですから、一度厳しく針が振れることは必要だと感じています。
しかし、ある程度浸透したら、罰するのではない形になるといいなぁと思っています。

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人間は非常に脆く、弱い生き物だと思います。状況が揃えば、簡単に下に転げ落ちていくものなのだと思います。

今回、私は多くの「暴力反対」の意思を目にしました。日本に、まだそう言える人が大多数なのかなと感じることに安心感を抱きつつ、一方、このようなことが起きてしまった。

このようなことを起こさざるを得ない人が、1人出てきてしまったことは、紛れもない事実なのだと思います。
(繰り返し、どんな人か、どんな目的かは全く知りません)

私は、犯人が自分とは全く関係のない人とは思えませんでした。関係ない人、自分は絶対しないと目を背けているうちに、いつの間にか自分の足ものに迫ってきているような気がしてならないのです。

だからこそ、そんな世界にしないために、こんな世界にあらがいながら、私に何ができるのか考えながら、明日、選挙に行ってきます。

ご冥福をお祈りいたします。

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