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検非違使別件 五 ⑨

 尉の藤原有綱に従って、手燭を片手に仁木緒は暗い獄舎内へ進んだ。少し後ろを紀成房が重い足取りでついてきている。
 左獄では荒彦こと能原門継よしはらのかどつぐが最奥の独房に隔離されていた。板にうがった穴に、それぞれ両手首と首を拘束され、足には鉄の枷がつけられて壁面につなげられているのだった。
 房には放免の春駒丸と稲若がいて、藤原有綱と仁木緒、紀成房が入ってくると一礼してすみへ退いた。
「石見丸の殺害について、二、三、確かめていたところでございます」
 春駒丸の言葉に藤原有綱がうなずいた。稲若が暗闇の中できつく拳を握っている気配がした。
「昼間の元気はなさそうじゃな。能原門継」
 藤原有綱が声をかけると、まぶたを押し上げて能原門継が薄笑いを浮かべた。
「ふん、おれを荒彦ということにして、流罪にするのではなかったのか」
「儀式で判決を言い渡したあと、獄中で石見丸を殺害したのだ。流罪ですむわけがない」
「待ってりゃすぐに恩赦があろうぜ。巷じゃ上東門院藤原彰子さまの病が重篤だと。ゆえに、平癒を祈ってあらゆる犯罪を赦す『非常赦』が行われると持ち切りだ」
「さよう。非常赦であれば『大辟たいへき(死罪)以下八虐、故殺人、私鋳銭、常赦免ぜざるところ、皆ことごとく免除』となる。だが、我らが別当さまはそういう廟堂の動きには一線を画して犯罪と向き合うお方。簡単に貴様の罪が赦されると思うな」

  律の定めるところ「八虐五刑」というものがある。
 五刑は「笞(ち)、杖(じょう)、徒(ず)、流(る)、死」。それぞれ罪の重さによって決められる。
 笞刑に使用するのは木の若枝で、長さ三尺五寸(約一〇四センチ)。細い部分はおよそ二分(六ミリ)太い部分は三分(九ミリ)。その笞で罪人の臀部を打つ。罪の重さによって、一〇回打つものから二〇、三〇、四〇、五〇の五段階があった。
 拷問では、笞刑より大きい笞を使用し、背中と臀部を殴打した。
 杖刑に使う杖は笞と同じく木製だが、細いところが三分(九ミリ)最も太い部分が四分(十二ミリ)である。打撃の回数も、一番軽い杖刑が六〇回。それから七〇、八〇、九〇、一〇〇の五段階。
 懲役刑の徒刑ずけい(徒罪)は一年から三年まで、半年を一段階として五段階があり、畿外とつくにで求刑されればそれぞれの国で労役につく。
 徒刑が畿内うちつくにで求刑された場合は都に送られて、獄につながれ大路や内裏周辺の溝の清掃などが課された。
 遠隔地へ送られて、一年間の強制労働に従事させられる「流刑」にも決まりがあり、罪の軽重によって近流こんる中流ちゅうる遠流おんるの三段階がある。
 遠流は伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐。
 中流は諏訪(のち信濃に改められる)と伊予とされた。
 近流は越前、安芸である。
 他に「加役流かえきる」というのは遠流に処したうえで、三年の労役に服させるのだった。

 死刑には二種類ある。絞(こう)と斬(ざん)である。絞(こう)は縛り首であり、首を切り落とす斬(ざん)よりも刑としては軽いとされている。
 再発防止を目的として、どちらも人目につく市などで衆人環視の中で執行されるが、例外はある。五位以上の位階を持つ者の場合、肉親の暴行や殺害といった八虐のうちの『悪逆』でないかぎり、自邸での自死が許された。

 その規定は「八虐」に添っている。
 其の壱『謀反(むへん)』は国家への反逆行為、およびその計画をたてた罪。
 其の弐『謀大逆』とは帝の陵や邸を損なうことと、その計画をした罪である。
 其の参『謀叛(むほん)』は亡命や戦での敵前逃亡、降伏など、国に背いた行為をさす。謀反(むへん)よりは消極的と見なされ、軽罪とはいえ絞である。
 其の四『悪逆』とは父母、親戚などへの暴力と殺害の罪で、計画しただけで斬に処された。
 其の五『不道』とは三人以上の殺害である。四肢の切断による残酷な殺人や暴行傷害にも適用された。呪術の毒薬である毒虫同士を共食いさせて作り出す「蟲毒こどく」を作って使用することや、人形に釘を打ち込む呪詛なども『不道』とされた。
 其の六『大不敬』は帝への誹謗中傷、大社の破壊、神宝などの窃盗。これは「絞」に処された。
 其の七『不孝』は親や直系尊属への暴力、告訴、あるいは死後に弔いを出さない場合に適用され、「絞」である。
 其の八は『不義』。礼や義にそむく罪で、仕えている主人や国守、恩師などの殺害、亡夫へ哀悼の気持ちを示さない妻などが「斬」に処された。

  こうした決まりを細々と能原門継が知っていたわけではない。しかし、本能的に看督長の不遜な囚人入れ替えが、おのれをここにつなぐこととなったのだと察している。

「へえ、それじゃあ、こいつらが」
 能原門継が藤原有綱のそばに控えている仁木緒たちへあごをしゃくった。
「こいつらがおれを荒彦ということにしたいつわりはゆるされるのか? 貴様らが儀式でおれに荒彦として足枷をつけたということは、獄中で石見丸を殺したのは荒彦であって能原門継ではないという理屈になるぜ。……ははっ! これではっきりしたぜ。脱獄した荒彦はやってもおらぬ罪に問われる天命だということがな」
「思い違いをするな、門継。看督長たちの一存で貴様を身代わりにした事実を闇に葬ろうというのではない。別件として荒彦を追捕し、刑に服させる。公の記録には載せぬというだけのこと。尉であるわしが告げるのだから、貴様に逃げ道はないぞ。命が尽きるまで、おのれの罪と向き合うがよい」
 藤原有綱が目くばせし、仁木緒が前に出た。
 上役の尉が能原門継に口頭で引導を渡すことで一応の区切りをつけ、あとの処理はこうした事態を招いた看督長らの贖罪として責務を負わせる肚なのだ。
「これからはおれたちが取り調べる」
 仁木緒が能原門継をにらみつけた。
「意識を失う以前、お前はどこにいた」
「つまらねえことを聞くな」
「女に一服盛られたか」
「あ? なんで女が関わっていると思う?」
「はめられたのだ、あのアマはどこじゃ……と口走ったろう。アマとは舞姫か?」
 とっさに「さゆり」という名を出さなかったのは、切り札として取っておきたかったからだ。それに、もしもあの舞姫が能原門継をはめたのなら、能原門継をおびととあおぐ配下のならず者たちから復讐の標的となってしまう。舞姫をかばいたい心理もあった。

 獄舎から徒刑囚が都に出て、街路に捨てられた病死者の遺体を葬送地に運ぶ労働もあり、そうでなくとも獄舎には容易に人が近づける。獄中から賊が配下の者に連絡を取ろうと画策すれば、安易に指図できるのである。
(能原門継ほどの男なら、配下の者が救い出そうとするに違いない。さゆりを証人として守る必要がある……)
「舞姫なんぞ、知らねえな」
 うっそりと能原門継はつぶやいた。薄笑いは消えている。虚勢だな、と仁木緒は察した。笞で打つまでもないと判断した。能原門継はいま、身辺に味方はおらず、すでに空腹と渇きに苛まれている。虚勢だけが支えなのだ。「尋問の内容と捜査の進展はあとでお伝えいたします」
 紀成房がうやうやしく藤原有綱に言った。
「うむ、それにしてものどが渇いたな」
「ここに用意してあります」
 能原門継に竹の水筒を見せびらかし、紀成房が藤原有綱にカワラケを渡して水を満たす。うまそうにのどを鳴らして藤原有綱が水を干した。ながめている能原門継が呼吸を荒くして、ひび割れた唇をしきりに舐める。のどぼとけを上下させた。
 水筒は春駒丸に手渡され、別のカワラケでそれぞれが水を飲みはじめる。ついに能原門継が身を乗り出してわめいた。
「おいッ! おれにも水だ……ッ」
「なんだって?」
「水をくれと言っているんだッ」
「儀式前……昨日から今日まで、お前はどこで誰と会っていた」
「うるせえッ。貴様らの知ったことかッ」
「棒で打ち据えましょうか?」
 業を煮やした様子で春駒丸が仁木緒に提案する。早くも稲若が六尺棒よりずっと短い棒切れをつかんで構えていた。石見丸を死に至らしめた杭かもしれない。
「おいらにやらせてくれ! 石見丸のかたきだ」
「打ち殺すなよ、稲若」
「くそ……ッ。水を飲ませろッ」
「わしは引き上げる。仔細は報告するように」
 肉を打つ音とうめき声など聞こえないかのように、藤原有綱はカワラケを紀成房へ戻して房を出ていった。
 前髪を汗で額にはりつけて稲若が息を切らせ、ふらつきながら再び棒を振り上げた。それを仁木緒は止めた。
「もういい。少し休め」
 稲若がうなずいて下がると、能原門継の前髪をつかんで顔を上向かせる。仁木緒はあざと裂傷にまみれたその顔をのぞきこんだ。
「アマとは誰のことだ」
「……でいれ、んに……だ」
「尼僧か?」
 問いただしたが沈黙しか返ってこない。
 仁木緒は少し、ぼうぜんとした。
 でいれんに……とはあの若い尼僧だろうか? 頭に包帯を巻いていた男と妻、数珠を手首に巻いた老人と少女に感謝されていた、あの泥蓮尼だろうか?
 なぜその法名に自分が度を失う必要があるのだろう。おのれの心が理解できず、仁木緒は気を取り直して言葉を続けた。
「貴様はおれに、右京三条に建つ藤原登任なりとうさまの邸へ行って家司の伴家継とものいえつぐという男に会えと申したな」
「……そうだったかな?」
登任なりとうさまの邸につとめる、伴家継という男にかくまわれていたのか?」
「知らねえ……っ。忘れたッ。う、痛……ッ」
 打撲で黒ずんだ肩を仁木緒が殴りつけた。左半身を下にして倒れた能原門継を引き起こし、耳元に口を近づける。声を荒げた。
「伴家継が貴様を獄から救い出すとすれば、理由はなんだ」
「なんのことか、さっぱり分からねえ……ッ」
「おい、とぼけるなッ」
 あとは押し問答になった。
 稲若に変わって春駒丸が棒で臀部を打ったが、それ以上やれば意識を失うと察しがつく顔色になっても、能原門継は口を割らなかった。
「壁から外してやれ」
 仁木緒が命じると、春駒丸が能原門継の足首を拘束している枷を壁面の鉄の輪からはずした。
 首と両手首の自由を奪っている板枷をつけたまま、能原門継を立たせた。獄舎から連れ出した。後ろには紀成房、春駒丸、稲若らがいる。

 やがて枯れ井戸のあたりまで来た。
「おい、貴様が倒れていたのはこの枯れ井戸のそばだ。ここまで誰がおまえを運んで来た? まさか自分でここに潜んでいたのではあるまい」
 力任せに仁木緒は能原門継を枯れ井戸の中をのぞきこませた。
 相手の言葉を待ちながらも、仁木緒は舞姫のことを思い返していた。春駒丸も同じだったらしく、しきりに両腕を動かして紀成房に説明している。
「儀式前に整列していた囚人たちを監視していたとき、舞姫がこのあたりに現れたのです。そりゃもう、見事な……体を旋回させて袖を大きく広げる異国の舞……のようでしたな。おれは異国の舞など見たことがないもんで、『あれが宋の舞姫じゃ』なんぞと言われれば、ああ異国の舞姫かあ、などとため息しか出ませんでしたよ」
「で、石見丸たちの列に衣装の袖布がかぶったんだよ」
 稲若もあの野次馬の群れの中にいたらしい。仁木緒は身近に自分と同じ目撃者がいることに、心強い思いがした。

 春駒丸が舞姫と笛吹童子のことを口々にほめそやし、そのときの様子を紀成房に訴える。最初はフンフンとうなずいていた紀成房だったが、そのうち、身震いして悔し気に足を踏み鳴らした。
「ううう……なにゆえわしは、その美しき舞姫を目にできなんだのか……。酒房の女どもといかに浮名を流そうが、そんな艶やかな舞踏が見れなんだのは、何かの因縁であろうか……」
 頭をかかえ、その場にうずくまってしまった。
「とんでもない悪い女かもしれぬのですよ、その舞姫は」
 女の話題となると、すぐこれだ。ややうんざりしながらも、仁木緒は紀成房をなぐさめた。
「おれはむしろ、目にしなければよかったと思っています」
 あの舞姫のためにこんな羽目になったのではないか。
 枯れ井戸のへりに身をもたれかけている能原門継が、くぐもったうめき声をあげた。とっさに男の首と手首を拘束している板枷のへりをつかみ、仁木緒は耳をそばだてる。
「……舞姫……だと? あの女は、殺したはずだ……死んだ、はず」
 能原門継のつぶやきは稲若や春駒丸には聞こえなかったらしい。
「舞衣装の袖が囚人たちを覆ったときに笛吹童子が『さゆりさま、お早く』と言ったと記憶しております。紀成房さまは酒房に顔が利きましょうから、さゆりと申す舞の上手な女に心当たりはないでしょうか」
 春駒丸の問いかけに腕組みし、紀成房が真剣に眉をひそめる。うむむ、と五つほど呼吸したあとで、がくりと脱力した。
「残念ながら、異国の舞踏を心得た女など知らぬ。さゆりという名も偽名かもしれぬぞ」
「ですが、とっさに童子が偽名など口にできましょうか?」
 そういうやりとりは能原門継の耳にも入っているようだが、反応は鈍い。体を震わせ、しきりに「あの女は死んだはずじゃ」と口ごもるばかりだった。
 仁木緒は能原門継の前髪をつかみ、やや顔を上向けさせた。「おい、お前は異国の舞踏の心得がある女を、殺したというのか?」
「……うう、打たれすぎて、頭がぼんやりする。傷が痛え……」
 皮肉を口にしてとぼけるばかりだった。

 紀成房や春駒丸がいる位置から、この枯れ井戸までの距離を仁木緒は視線で測ってみた。
 周囲は群衆がいたとはいえ、仁木緒は囚人の列に野次馬を近づけまいとしていた。だが、舞姫の艶やかさに魂が奪われ、軽やかに舞踏を踏む女に接近を許したのだ。距離にして、およそ一丈半。あのたっぷりと長い袖を自在に操る技があれば、目的の人物にかぶせるなどたやすかろう。

 自分が見たことを誰かに説明できる誇らしさで、稲若が表情を明るくしている。
「あのときさ、みんなは舞姫の袖に笛吹童子が隠れていると思い込んだんだよ。何しろ笛がちらっと見えたし、草色の水干を身に着けているみたいだったしさ。だけど笛吹童子ってのはね……」
「そうだ。おれも確かに水干袴を見ました」
 仁木緒が語尾をかぶせる。紀成房はうなずいた。
「だが、実際はそれが荒彦だったというわけじゃな」
(つまり、舞姫のさゆりは荒彦が草色の水干袴を身に着けて獄舎に繋がれているとあらかじめ知っていて、笛吹童子に同じ装束をまとわせたということか……)
 舞姫と荒彦が立ち去ったのち、二人の影に隠されていた能原門継を発見したのだ。
「おい、門継」
 仁木緒は呼びかけ、改めて枯れ井戸の中をのぞく。すっかり干上がって湿気すら底に残ってはいない。
「意識を奪われた貴様はこの枯れ井戸の底に、あらかじめ転がされていたんじゃないのか? 舞姫の袖に隠れた荒彦が素早く枯れ井戸から貴様を引き上げ、袖布が取り除けられてから、笛吹童子のふりをして二人はこの場を逃れた……」

 だが、獄舎で体力を消耗させていた華奢な荒彦に、この大男を引き上げる力があったとは思えない。あの舞姫が手伝ったにしても。なにより、舞姫はそんなそぶりは見せなかった。

「うるせえッ。だったらどうだってんだよッ」
 不意に能原門継がわめいた。
 紀成房らがハッとなってこちらへ走り寄る。足を上げて蹴りつけてくるが、能原門継の足首は鎖がついている。すぐ態勢を崩して転倒した。そこをすかさず仁木緒は膝で能原門継の背をおさえつけた。それでも男は体をゆすって暴れ続けた。
「くそ……ッ。さゆりは死んだ。殺したんだッ。それとも、よみがえったとでも言うのかっ。あのアマと組んでおれをここに運んだとでも……ッ」

 能原門継が言うアマが泥蓮尼だと、判明したばかりだ。

 着鈦ちゃくだの政が行われる前日、この場所で信心深い様子の老人らに慕われていたあの若い尼僧のことだとは、信じがたい。
 それとも同じ「泥蓮尼」という法名を持つ尼僧が別に存在し、能原門継に強い眠り薬を盛り、何者かの協力を得て枯れ井戸に隠したということなのだろうか?

「殺した舞姫の名はさゆりで間違いないなッ」
「知らねえッ」
「どこで殺したッ。遺骸をどうしたのだッ」
「へん、地べたを這いずり回って調べるのがお前の仕事だろッ。簡単に口を割ると思うなよッ」
 仁木緒に殴られ、能原門継の体が大きくかしぐ。すぐにぐったりとなった。
「獄舎に収容いたします」
 春駒丸の申し出にうなずいて、能原門継の身柄を渡した。体力を使い果たし、悄然とした能原門継が連行されていく。仁木緒に紀成房が声をかける。
「こうなっては、手分けして探さねばならんな。舞姫のさゆりと泥蓮尼。それから笛吹童子を」
「そうですね。その三人を押さえれば、必ず荒彦の居所もつかめるはず。もう一つの手がかりとしては藤原登任さまに家司として仕える伴家継。わたしが当たってみます」

 そう告げたものの伴家継については、あまり期待できぬ……と判断していた。
 恐らくこの男は能原門継の仲間なのだろう。だが、権門の家に仕えている。憶測だが、尉と同じ六位ほどの位階を持っているのではあるまいか? 五位、六位の貴族など、都中にいる。能原門継もそうだ。

 位階によって貴族は田地を与えられているが、六位以下は年に二回「季禄」が大蔵省から支給される。季禄は布や綿、あるいは鍬といった鉄製品である。しかし、条件がある。決まった役所に勤めており、出勤日数が足りている場合にかぎって給付されるのだった。
 官職についていなければ、六位以下の貴族など無給に等しい。位階は子孫に遺産として譲り渡されるものの実利はなく、その一族を「名誉の家」として成立させる要素にすぎない。
 ゆえに下級貴族たちはおのれの荘園を営むかたわら権門の家に仕えるか、あるいは海賊として地方で勢力を誇ることもめずらしくない。

 朝廷の警察力である検非違使庁とは別に、権門の家ごとにそれぞれ「掟」がある。高貴な貴族は従僕が罪を犯せば「私刑」で処罰した。その私刑のために、わざわざ検非違使庁に突き出して獄舎に従僕を放り込むこともあった。あるいは逆に、無法をしでかした従者を検非違使が捕縛した場合、すぐ「圧力」をかけて釈放させることもあった。

(だから、おれのような身分の者が訪ねて行っても伴家継と直接、話ができるかどうかも分からぬ)
 そんな思案を煩わしく感じながら、仁木緒は紀成房に舞姫さゆりがいた場所を手で示した。
「野次馬たちにまぎれて舞姫と荒彦が逃げたとしても、あの舞衣装は目立ちます。二人、いえ笛吹童子を加えて三人がどこへ行ったのか、必ず誰かは見ていたはずです」
「うむ、わしは舞姫の行方を追う」
 早くも紀成房は浮足立っている。これから酒房の女を口説きに行くかのように表情が輝いていた。
「さゆり、さゆりというのだな……さゆり、さゆり」
 慎重に、と釘を差しておかねばならぬ。仁木緒は跳びはねて去って行く先輩の背中に呼びかけた。
「能原門継の一味に、すでに狙われているかもしれません。殺されているかもしれぬのです」
だが、紀成房は振り返らない。
「笛吹童子のことも、きちんとお調べを」
 仁木緒の声がむなしく響き、紀成房は辻を曲がって見えなくなった。
「おいら、知っているよ」
 すぐそばで子どもの声がした。後頭部に両手を回して背伸びしている稲若を仁木緒は見おろした。
「え? なんだと?」
 路地は夕日で染まり、影が長く引き伸ばされている。内裏から帰宅する牛車が門を抜け、大路では商家から琵琶をかき鳴らす音が流れて来ていた。早くも宴席を催しているのか、笑い声と唄声が混じっている。
 丸い目を見開いて、稲若がゆっくりと繰り返した。
「あのとき笛を吹いていた子だろ? あいつ、ゆずかっていうんだ。化粧なんかして、いつもと感じが違ってたけどさ」
 風が退紅色の狩衣の袖を揺らす。ぼうぜんと仁木緒は稲若を見おろすばかりだった。その視線に決まり悪くなったのか、稲若が鼻の下を指でこする。「言いそびれちまったんだよ。だって、みんなが童子童子って言うから……。ゆずかって女の子なんだぜ」

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