記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『クレヨンしんちゃん』劇場版『超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』の「がんばれ」と現代日本の善し悪しと権力と科学と経済学の消費と積極財政について


https://note.com/meta13c/n/n7575b6c0826b

この記事の注意点などを記しました。

ご指摘があれば、
@hg1543io5
のツイッターのアカウントでも、よろしくお願いします。
https://twitter.com/search?lang=ja&q=hg1543io5




注意

これらの重要な展開を明かします。特に、PG12指定の映画『シン・仮面ライダー』にご注意ください。

アニメ映画

『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』
『クレヨンしんちゃん ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』
『クレヨンしんちゃん 花の天カス学園』
『クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』
『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』
『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』
『クレヨンしんちゃん わくわく温泉大決戦』
『クレヨンしんちゃん ケツだけ爆弾』
『クレヨンしんちゃん 3分ポッキリ大進撃』
『クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望』
『クレヨンしんちゃん アッパレ 戦国大合戦』

漫画
『クレヨンしんちゃん』
『新クレヨンしんちゃん』
『ドラゴンボール』
『銀魂』
『キミのお金はどこに消えるのか』
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』
『逆資本論』
『ウルトラマン THE NEXT』
『左ききのエレン』(少年ジャンププラス)
『BLACK LAGOON』
『マンガで分かる心療内科』
『こんなに危ない⁉︎消費増税』

テレビアニメ

『クレヨンしんちゃん』
『銀魂』

特撮映画

『シン・仮面ライダー』
『ガメラ3 イリス覚醒』
『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』

テレビドラマ

『ラストマン』
『VIVANT』
『集団左遷‼︎』
『下町ロケット』(TBS,1期)

特撮テレビドラマ

『ウルトラマンメビウス』

はじめに

 『クレヨンしんちゃん』劇場版『超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』について、ネットで様々な議論があるらしく、私なりの意見をふせったーに書きました。
 今回はその要素を長文にまとめてみます。
 かなり長いものですが、よろしくおねがいします。

 『とべとべ手巻き寿司』で、貧困などの問題に苦しむ現代的な男性の非理谷充が、しんのすけと共に超能力を得て、世界を覆すような暴走をしてしんのすけと戦い、最後には過去の記憶についてしんのすけに助けられ、ひろしに「日本の未来は明るくないかもしれないが誰かの幸せのためにがんばれ」と言われました。
 これらの「がんばれ」という声かけに賛否がかなり分かれるようです。

充と社会の問題が混乱している

 まず、充の不幸のうち、経済の不況や雇用は積極的な財政政策などで解決すべきだと私は考えていますが、親の離婚、アイドルの結婚、いじめ、サラリーマンに絡まれたこと、強盗犯に間違われたことは社会の問題とどこまで関係しているか難しいでしょう。

 親の離婚は、増えたことが社会的に悪いことかは、意見が分かれます。むしろ『ゼロ年代の想像力』2011年版では、「女性が離婚出来るようになったのは自由で良いこと」というような主張さえあります。親の自由と子供の尊厳のどちらを重視するかは、どちらを選んでも一概に「世の中が悪い」と言い切れません。
 いじめは現代日本の小学生や中学生で報告が増えていると言われますが、充がそうだった頃増えていたか分かりませんし、むしろ充の方が経済的に恵まれている分物品を恐喝されていたなら、加害者も不況の犠牲者になってしまうかもしれません。それどころか、そのいじめをしていた方が元々貧しく、なおかつ序盤のサラリーマンとなり、充よりは現在の社会的地位が上だったのなら、彼らこそ「不景気に負けずにがんばっていた」ことになりかねません。「がんばる」ことと「悪いことをしない」のは必ずしも両立しないのです。後述する『ラクガキングダム』には、事情はあるとはいえ「努力する悪役」がいました。
 いじめの過去の記憶にだけ暴力でやり返し、その当事者の現在らしい3人組のサラリーマンには何の制裁もありませんでした。
 また、後述しますが、『クレヨンしんちゃん』の近年の漫画版には、態度の悪い強者に制裁がされないときもあります。
 アイドルの結婚も、芸能に私は詳しくありませんが、必ずしも悪いことではなく、むしろ他人の幸運を喜べない、ファンと恋愛関係の線引きを出来ない充の方に問題があると言えます。通りがかった幼稚園の弁当のおかずが自分の頃より良い味だと思ったのすら悪く解釈するなど、充が他人や知り合いの幸福すら喜べなくなっているところもあります。
 充が嫉妬するインスタやフェイスブックも、誹謗中傷などに悪用されたならともかく、本来は良い意味で使われたもののはずです。
 また、警察の誤認逮捕は社会問題とは言えず、今回は充と強盗犯の服装が近かったというきわめて低確率の偶然によるもので、元々充は悪くないのですが、警察も一概に悪いとは言えません。持っていた焼き鳥の串を武器だと断定したのは難しいところですが。
 後述しますが、徐々に近年の『クレヨンしんちゃん』シリーズでは、権力者が悪いと言えなくなっているときもあります。そもそも、仮にひろしがその場にいれば、充を服装で疑ったり、「悪いことをしていないなら堂々としなさい」と注意したりしたかもしれません。充自身ですら、強盗犯と同じ服装の人間がそばにいればさすがに疑ったでしょう。悪いのは警察ではなく強盗犯だと言うべきであり、警察官が充に反撃されて、肝心の強盗犯は顛末が分かりません。

モブキャラの顛末が分からない

 また、充と同じく引きこもりのようになった社会の犠牲者のような人間達が、充の超能力の暴走で逃げたあとは全く救済の描写もありません。
 これは『シン・仮面ライダー』とのコラボ『しん・仮面ライダーだゾ』で、しんのすけが敵に操られたまつざか梅や園長を助けても、同じく敵に操られた下級戦闘員は仮面ライダーの本郷達にバイクで跳ねられ、ルリ子に攻撃されている可能性が直接映らないのを連想します。
 端的に言えば、「周りが見えていない」、「主要人物の感情を優先している」、「モブキャラを軽んじている」のです。
 また、『シン・仮面ライダー』の「少数の幸福」を目指す敵組織のショッカーのAIのケイは、組織の構成員に協力して、構成員のオーグメント同士の目的に明らかに対立する要素がありながら放置し、ショッカーも含めて人類を滅ぼすとも言えるチョウオーグに「止めないのか?」と尋ねられても「ご存分に」と返しています。「少数の幸福」を目指すあまりに、他の少数の幸福の妨害をしていることに気付かないのは、充が引きこもり達を攻撃したのに似ています。

社会的な後始末がされていない

 超能力の影響もありますが、充が現実に立てこもりなどをした事実が警察に最終的にどう扱われたかも分かりません。
 実のところ、日曜劇場『ラストマン』や『VIVANT』では、警察幹部や外国の孤児救済の組織の重大な不祥事や不正や、主人公の親子関係などの驚くべき事実が判明しながら、マスコミや一般人の受け止めが最終的に描かれませんでした。
 そのように、『クレヨンしんちゃん とべとべ手巻き寿司』は、後始末が曖昧になったと言えます。
 これまでも、現代日本人が犯罪をしながら、一部の改心などで逮捕の描写が曖昧な映画は、『オトナ帝国の逆襲』や『暗黒タマタマ大追跡』にもありましたが、『とべとべ手巻き寿司』は現実の描写の解像度が高いにもかかわらず、最後が曖昧なのです。

「がんばれ」の是非の議論

 そして今回の映画でかなりネットで問題視されているようなのは、戦いをやめた充にひろしが言った、「この国の未来は明るくないかもしれないが、それでも生きて行くしかないからがんばれ」、「誰かを幸せにするためにがんばれば、自分も幸せになれる」というものです。 
 「がんばれ」と言うのが良いのか悪いのか、「がんばれと言われて否定する方が悪い」、「ひろしは充を応援しているではないか」というように意見が分かれています。
 また、私の知る限り、「がんばっている人間にがんばれと言ってはいけない」という趣旨の主張も『集団左遷‼︎』や『銀魂』アニメ版にありますが、『マンガで分かる心療内科』20巻では、「重いうつの相手にがんばれと言ってはいけないが、軽いうつの相手には言うべき」という複雑な論理がありました。
 充がうつに当たるのか、『集団左遷‼︎』や『銀魂』のどれに近いのかは解釈の問題なので、話がこじれます。
 また、『マンガで分かる心療内科』では、うつの人間を車のエンジンにたとえていますが、私が見る限りこの漫画のシリーズは法律、貨幣、遺伝子、文化などの区別が雑で、たとえも雑になっていると考えます。

2024年4月29日閲覧

 法律の政治、貨幣の経済、遺伝子の恋愛など、文化の宗教などにおける「がんばり」はそれぞれ区別すべきでしょう。

参考にすべき過去の劇場版

 そのような雑なたとえより、私は『とべとべ手巻き寿司』になるべく近い媒体、つまり『クレヨンしんちゃん』の直近の過去の劇場版を挙げます。
 ちょうど過去の劇場版『花の天カス学園』、『ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』、『もののけニンジャ珍風伝』では、確かに「がんばれ」という言葉は事実としてありますが、私が見る限り、それとは別に明らかに「がんばれ」と言ってはいけない、言っていないときもありました。

 少しずつ整理します。

『花の天カス学園』の走る「がんばり」と悪役ですら言わない「がんばり」

 まず、『花の天カス学園』では、AIのオツムンにより管理された天カス学園に体験入学した風間やしんのすけが、オツムンの判断で与えられるエリートポイントを巡る騒動に巻き込まれます。
 オツムンが学園長の曖昧な指示で、生徒にエリートポイントを楽に稼がせるために強制的に、半ば洗脳して「スーパーエリート」にする事件を起こしていたのですが、しんのすけはそれで変化した風間と走る競争でやめさせるように持ち込みました。そのとき、風間が勝てば同じような「スーパーエリート」になれるはずの他の生徒も、徐々にしんのすけ達に心を動かされて、応援して「がんばれ」と言うようになりました。
 また、しんのすけ達が勝利したあと、ポイント制度は廃止されたようです。
 しかし、「がんばれ」と言っていないときもあります。ポイントは学業だけでなく模範的な行動や芸術などでも評価されるのですが、元々走る成績だけでエリートだった女子中学生のチシオが、「怪我で走れなくなった」ことに対しては、悪役のようになっている学園長ですら、「治すのをがんばれ」、「上手くいかないのはがんばりが足りないせいだ」などとは言っていませんでした。

『ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』の持ち上げる「がんばり」と被害者も悪役もしなくて良くなった「がんばり」

 『ラクガキングダム』では、子供の落書きのエネルギーで活動するファンタジックな王国「ラクガキングダム」が、タブレットの発達などで落書きが減ったことで滅びかけ、国王の「落書きとは自由な心で描くものだ」という反対を押し切った防衛大臣が、春我部の子供達に落書きを強要しました。
 それでも、既存の漫画の真似は役に立たないからと「自由な落書きを描きなさい!」といった強制に限界があったらしく、やはり崩壊が止まらず、元々落書きを実体化する魔法のクレヨンで抵抗していたしんのすけ達が、巨大なぶりぶりざえもんを実体化させて王国を支えて戻しました。そのとき、持ち上げるのを「がんばれ」と応援する声がありました。
 しかし、逆にラクガキングダムの防衛大臣が子供に落書きをさせる、「がんばらせる」のは否定されています。また、防衛大臣を含むラクガキングダムの敵はみな、水で消えてしまう体質でありながら危険な地上に降りて、悪役なりに「がんばって」はいました。最終的には、戦いでも使われたタブレットで子供が描く落書きを使えば良いという解決策が見つかり、子供も敵もそもそも、考え方を工夫すれば無理にがんばる必要はなかったという結末でした。弱点こそあっても社会的権力者である防衛大臣の言うなりになって「がんばる」必要があるか、その防衛大臣達も弱点の水を恐れながら戦う必要があるかは否定されたのです。

『もののけニンジャ珍風伝』の押す「がんばり」と被害者がしなくて良くなった「がんばり」

 『もののけニンジャ珍風伝』では、地球の環境を維持するためにエネルギーを閉じ込める「へそ」に特殊な金属で栓をしている村の忍者が、その指導者によって秘密のために不自由な暮らしを強いられ、忍者の1人のちよめが息子の珍蔵をしんのすけと取り違え子だったことにして入れ替えようとしました。
 様々な経緯で栓が外れて災害が起き始め、指導者が科学者と共に作った人工的な栓は失敗したのですが、子供のしんのすけ達が、珍蔵と共に、栓が外れて流れ出たエネルギーを逆用し、「本来子供なら誰でも使える」「もののけの術」で巨大な動物を生み出して、栓を運んで戻しました。その最後に押し込めるときに、しんのすけは自分の生み出した巨大なシロに「がんばれ」と言っています。
 しかし、指導者が忍者の村に不自由な暮らしを強いていたのは、自分だけぜいたくをしたりシェルターにこもろうとしたりした指導者に制裁を加えたあとなくなり、村は解放されました。社会的強者の言うなりになり「がんばる」必要はなく、戦闘能力は高いものの社会的には弱者の忍者が我慢する「がんばり」は否定されたのです。

やはり充に「がんばれ」と言ってはいけなかった

 この3作と比較しますと、やはり今回の『とべとべ手巻き寿司』の結末の「がんばれ」は、3作で肯定された「がんばれ」とは異なり、むしろ3作で「がんばれ」と言われなかった、言ってはいけなかったときに近いとみられます。
 『花の天カス学園』の「がんばれ」とは子供に「走れ」という意味であり、『ラクガキングダム』の「がんばれ」とは巨大なキャラクターに「重いものを持ち上げろ」という意味であり、『もののけニンジャ珍風伝』の「がんばれ」とはやはり巨大なキャラクターに「力一杯押せ」という意味であり、どれも子供や動物にでも、健康なら出来る、方向性の明確な単純作業だったのです。「何をがんばれば良いのか」は子供や動物でも分かりました。
 『とべとべ手巻き寿司』は、不況などの社会問題において、ただ、成人男性ではあるものの社会的には弱者の充に「がんばれ」と、方向性の分からない、本人も「何をがんばれば良いのか分からない」努力を強いています。
 さすがに『花の天カス学園』で、事件が起きたばかりで何をどうすれば良いか分からないときに、最後のようにいきなり「がんばれ」とだけ言っても混乱したでしょう。『ラクガキングダム』や『もののけニンジャ珍風伝』で、最後にがんばった子供、しんのすけなどに、方向性の分からないときに最初からそれを求めれば、大人がかなり無責任に映ったはずです。
 さらに、『ラクガキングダム』のぶりぶりざえもんは、最初の1体目が、直ぐに裏切ったり怠けたりする、「誰かの幸せのためにがんばらない」傾向がありましたが、消えたときに他の仲間も先に消えたのを心配する程度の精神はありました。しかし、しんのすけが王国を支えるために生み出した2体目は、「誰だ、急に呼び出したのは?」という台詞から、その辺りの知識や精神を引き継いでいない可能性があり、そのぶりぶりざえもんでも春我部を救えたのは、持ち上げないと自分も潰される状態で、「言われなくてもがんばる」ときだったためです。つまり、自分の幸せのためだけにがんばった結果、誰かを幸せに出来たのが『ラクガキングダム』のぶりぶりざえもんの状態で、ひろしが充に求めたのと逆のところがあります。

ひろしやみさえは、過去作では社会的強者に逆らっている

 また、『花の天カス学園』では、オツムンの暴走に繋がったのは、学園長がポイントを生徒に稼がせようとしたためで、オツムンに反乱などの意思は特になかったのですが、徐々にオツムンもレースに勝つために不正をし始め、ひろしは「そんな馬鹿な」と言い、みさえは「どこの馬鹿よ、こんなの作ったの」と、本来自分がしんのすけを入らせたかったエリートの学園の長を批判しています。
 『ラクガキングダム』でも、外国の防衛大臣という権力者に、ひろしも含めた主人公達は逆らっており、その防衛大臣も反対する国王を合法的に逮捕する反骨の愛国心がありました。
 『もののけニンジャ珍風伝』でも、忍者の村に貧しく原始的な暮らしを強いる指導者に、ひろしが直接何か言ったとは言いにくいものの、やはり主人公達は反乱や反発をしています。
 それらが『とべとべ手巻き寿司』にはなく、ただ社会的に弱者の充にだけ「がんばれ」と言い、社会的権力者は警察ぐらいしか登場せず、その警察にひろし達は何も言っていません。
 つまり、超能力には負けるかもしれないものの、社会的には強者の警察などに、物申さない結末でした。

「未来が暗くても生きて行くしかないんだ」と過去作でひろしが言った場合、とてつもない暴言になりかねない

 また、「生きて行くしかないんだ」というひろしの言葉、強制的に前を向かせるような台詞が、過去作では通用しない場合が多いと言えます。
 『花の天カス学園』は世界の危機を敵が招いたとは言えないのですが、『ラクガキングダム』で、落書きのエネルギー不足により物理的に崩壊しかけたラクガキングダムの住民に同じ台詞は通用しません。「生きて行くしかないんだ」どころか「君達は死んで行くしかないんだ」というとんでもない暴言になってしまいますし、その崩壊でひろしの住む春我部に墜落し、避難出来る可能性はあっても生活基盤を失います。
 『もののけニンジャ珍風伝』では、忍者が指導者の言うなりとなり、部外者のひろし達が妨害しなければ、災害を防ぐ栓の一部を指導者が削り売っていたので、いつか災害が起きて地球全体が滅びかねず、「君達忍者はこの明るくない未来を生きて行くしかないんだ」という台詞が、「地球は滅ぶしかないんだ」になってしまいます。
 また、被害が世界全体には及ばない『花の天カス学園』でも、「生きて行くしかない」だけでは、被害を受けた風間トオルなどの家族は泣き寝入りになってしまいます。
 つまり、ひろしは過去作では社会的強者の横暴やそれに有利な体制などの現状を彼なりに変える努力をしているのに対して、『とべとべ手巻き寿司』では現状を「それでも生きて行くしかないんだ」と放置して、現代日本が本当はひろしの生活の範囲で壊滅していないため言えているとも考えられます。率直に言えば、安全地帯からの物言いです。
 これまでの劇場版の多くで、ひろしは自分の身内と世界や日本全体の危機が一致しており、「誰かの幸せのためにがんばって自分も幸せになった」のか、「自分や身内の幸せのためにがんばって他人を助けた」のか、順番が曖昧です。

『花の天カス学園』と『とべとべ手巻き寿司』の「誰かの幸せのために自分の力でがんばる」共通点と逆の前提

 『花の天カス学園』では、エリートポイントを楽に稼ぐ変化をオツムンがもたらすのに、しんのすけ達が抵抗して、それを他の生徒も応援するので、「AIに頼らずに自分の力でがんばる」ことを肯定したと言えなくもありません。
 また、「誰かの幸せのために」、風間を戻すためにしんのすけががんばったとも言えます。
 しかし、『とべとべ手巻き寿司』とはそもそも前提が逆です。「強引な方法で助けるつもりの社会的強者に逆らい、社会的弱者が自分の力でがんばる」のが『花の天カス学園』であり、「助けるつもりのない社会的強者に黙って従い、社会的弱者だけ自分の力でがんばらせる」のが『とべとべ手巻き寿司』の結論だと言えます。
 オツムンは一応、「何故自分の利益を捨てるのですか?」と言っており、生徒達を助けるつもりだったのです。
 また、しんのすけを応援する生徒達は、「自分達もがんばってエリートポイントを稼ぐよ」とは言っておらず、そもそもその制度自体が否定されたようです。
 一方『とべとべ手巻き寿司』では、充を苦しめる社会の不況において、科学技術はあっても権力はないヌスットラダマス2世と、少し手を差し伸べたひろし以外誰も充を助けず、助けない社会の権力などに物申さないまま終わったのです。

劇中に現代日本の上手く行っているところが示されながら無視されている

 また、ネットで言及が見当たらないものの、『とべとべ手巻き寿司』では、現代日本の上手く行っているところも示しており、それがいつの間にかごまかされているところがあります。
 具体的には、しんのすけが褒めた「最近のコンビニスイーツ」があり、充ですら「最近のガキは美味いものを食っているな」と、弁当のおそらく冷凍食品や調理技術を褒めています。
 また、今回事件に気付くなどの情報について、明らかに低予算の組織でも天体に気付く、ヌスットラダマス2世がスマホで連絡出来た、ヌスットラダマス2世が持つ一般の雑誌で予言を知るなど、現代日本の科学技術が貢献したところが多々あります。
 ひろしの車は連載当初と外見こそ変わらないでしょうが、さすがに30年前の性能のままでは今回の戦いで敗北し、世界全体が滅んだかもしれません。
 仮に『クレヨンしんちゃん』シリーズで数少ない外国人のロベルトとオマタがいれば、「日本の技術はまだまだすごい」と誉めたかもしれません。ロベルトは日本文化、オマタは日本の料理を誉めたことがあり、科学技術もそう否定はしないでしょう。また、オマタの国は劇中世界最大の貴金属の金の輸出国で、その輸出した金が車の部品の材料として貢献しているかもしれません。
 『花の天カス学園』の事件はAIの暴走でしたが、それも悪意だけではなく、『ラクガキングダム』では事件の落書きの減少の原因だとされたタブレットが、かえって敵に抵抗するのにも協力し合うのにも貢献して、最後に「タブレットの落書き」で解決が示唆されました。『もののけニンジャ珍風伝』でも、人間離れした容姿や能力の忍者を悪意なく治療する救急隊員がおり、人工的な栓は失敗したものの、元々あった人工的な道路が、栓を転がして戻すのに役立ちました。つまり、近年の『クレヨンしんちゃん』の劇場版は、科学を肯定しているところもあるのです。
 

過去の劇場版で権力や科学が役に立たなかったとき

 元々『クレヨンしんちゃん』の劇場版では、ファンタジー風の展開で、現実的な科学や組織がほとんど役に立たなかったことはありました。
 『温泉大決戦』、『3分ポッキリ大進撃』などです。

 
 しかし『アッパレ戦国大合戦』のような、ひろしの車が戦国大名に勝つ貢献をした要素が、近年の3つの劇場版では強調され、それが『とべとべ手巻き寿司』にもあります。
 現代日本の少なくとも科学技術は、上手く行っているところもあることが示されているのであり、にもかかわらず「日本の未来は明るくないかもしれない」というのは矛盾しています。
  

 また、『クレヨンしんちゃん』シリーズでは権力者への批判や皮肉の要素、茶化すようなところは多々ありました。

 『温泉大決戦』では自衛隊員が巨大ロボットと戦い、負けそうになると「(戦車を)弁償しろ!」と言いながら逃げ出し、命がけで戦う自衛隊員などを「権力の手先」のようにして、役立たずにすることがありました。『3分ポッキリ大進撃』も怪獣に自衛隊が戦闘機ごと倒され、時間を戻してなかったことになったようです。
 『ドラゴンボール』原作では、敵の軍を率いる宇宙人のフリーザが、悪役としての目的はたいして変わらない部下のサイヤ人との「何となく気に入らない」という対立により最終的に破滅しており、「真面目に軍として仕事をしろ、いや、しない方が良いのか」という意見もおそらくあるでしょう。
 『暗黒タマタマ大追跡』でも、唯一同行する警察官が射撃の下手で、しんのすけが妨害したときだけ足に当たり、誰も殺さずに済み、その警察官が他の警察を出し抜いたとも言えます。
 そのように、『クレヨンしんちゃん』でも自衛隊や警察などの権力や文明を、「真面目に仕事をしないぐらいで良い」と茶化しているとも言えます。

過去3作は権力や科学を全否定しなくなった

 しかし、『花の天カス学園』の学園長は、自分の決めたポイントを生徒が稼ぎさえすれば失礼な態度も受け入れる、自分の恥ずかしい隠し事を見抜いたしんのすけ達の探偵活動を認める、最後は自分が事件を招いた責任を認めるなど、それなりに筋の通った人物でした。また、設備のコンピューター化で生徒がほとんど使わない図書館も充実させるなど、彼なりに「がんばっている」ところもあります。
 さらに、警察が本作にかかわらないのは学園長が通報を止めたためで、警察の落ち度とは言えません。
 『ラクガキングダム』の防衛大臣も国王も、自分なりに国を守りたい精神があり、防衛大臣はそのために自分の命も賭けて努力し、国王は最終的に大臣を許しました。
 また、『ラクガキングダム』でファンタジックな結界らしきものにより手出し出来ない自衛隊は基本的に役に立ってはいなかったものの、キャスターに事情を聞かれても「まだ分かりません」と正直に答えただけで威圧的な言動などはなく、車に隠れた子供を春我部に運ぶ間違いはしたものの、結果的にそれが貢献しています。
 『もののけニンジャ珍風伝』の忍者の指導者は私利私欲ばかりで間違いだらけの行動をしていましたが、これまでのファンタジックな『クレヨンしんちゃん』では否定されるような、現実的な救急隊員は人間離れした容姿の忍者を治療して、特に悪いことをしていません。

『とべとべ手巻き寿司』の警察はそこまで悪いのか

 そう考えますと、『とべとべ手巻き寿司』の警察官も、充を犯罪者と間違えたのは、服装などが似ていた低確率の不幸な偶然により、あながち間違いや権力の横暴とも言えません。串を武器とみなしたのは微妙ですが。
 繰り返しますが、そのとき現場にいなかったひろしでさえ、充に強盗の疑いがかかれば、さすがに疑ったり、「何もしていないなら堂々としなさい」と言ったりしたでしょう。
 立てこもりのときに窓を破壊して突入した機動隊員や、その場にいた警察官にギャグ要素はなく、彼らは真面目に仕事をしただけだとも言えます。
 また、この類の作品によくいる、超能力の存在を信じずに事態を悪化させる要素も本作の警察にはあまりなく、充の攻撃を爆弾と勘違いしたのも、超能力が実際に危険なのですからあながち間違いとも言い切れず、超能力を明確に目撃したあとは登場しないので、良いことも悪いこともしていません。

『とべとべ手巻き寿司』と『ウルトラマンメビウス』の誤解は偏見とは言い切れない

 少し脱線しますが、充が犯罪者と間違われたのは、容貌や服装で「いかにも犯罪者だ」という偏見を警察官が持っていたわけではありません。むしろそのような偏見は普段のしんのすけが園長や四郎にしています。外国人のロベルトやオマタが初登場したときに、警察官やみさえにそうされたところはあるかもしれませんが。
 『ウルトラマンメビウス』で似た例があります。歴史的に信頼されている赤いウルトラマンのメビウスと比べて、今まで知られていなかった青いウルトラマンのヒカリ=ツルギは、元々復讐にこだわり被害を出す戦いをしたので、反省したあともなかなか人間に信用されなかったのですが、さらに揺るがすときがありました。ババルウ星人がツルギやヒカリの姿に化けて暴れたのです。
 しかし、それでヒカリが疑われるのは、ババルウ星人の言うような「人間は外見で相手を判断する」、つまり「青いウルトラマンでいかにも悪そうだから」という偏見ではなく、単に同じ姿で暴れる人物がいたためでした。「外見で判断する」の意味が異なります。仮にババルウ星人が赤いメビウスに化けて暴れても、やはり本物のメビウスが、『メビウス』劇場版のザラブ星人による、少し外見の異なるメビウスの偽者が暴れたときのように疑われたでしょう。
 『とべとべ手巻き寿司』の充のときも、警察官は服装などに「悪そうだから」という偏見を持ったのではなく、単に強盗犯が近い外見だったためでしたから、その意味でも警察官が悪いとは言い切れません。

現代日本の経済で上手く行っている「内国債の低金利」

 ここで、すでに挙げた科学技術以外で、現実の現代日本で上手く行っている経済の要素を挙げます。そこにこの作品の勘違い、そしてひろしの勘違いがあると説明します。

 まず、現代日本で不況なのは、積極財政や反緊縮の理論によれば、デフレのためだとされます。
 デフレはある計算による物価が下がり続けることで、一見家計に楽そうでも、「今買うより我慢した方が得だ」と思わせて消費意欲が減り、いくら生産や供給の努力をしても、消費が増えないので空回りしやすく、それによる賃金低下によりさらに物価が下がり消費が減る、デフレスパイラルになりやすいとされます。
 その原因は、現代日本の場合、政府の借金である国債を恐れ過ぎて増やさないことだとされます。現代日本の国債は国内で消化される、いゆる自国通貨建ての内国債で、これだけによるデフォルト、財政破綻は先進国では考えられないと、財務省は2002年頃から認めています。自国通貨建て国債によるデフォルトはしないというのは新しい経済理論のMMTだと言われるものの、これはMMT以前に財務省も認める経済の常識だとされます。
 そもそも現代日本の通貨は、中央銀行が国債を買う「買いオペ」で民間に出回る通貨が増えて、それを税金で回収することで減らすので、デフレ不況で消費税などを増やしたことがデフレから抜け出せない原因だとされます。
 さらに、政府の借金を恐れておきながら、消費増税の代わりに大企業の法人税ばかり減らしたことで、税収もあまり上がらず、低所得者に負担のかかりやすい消費税が増えて、高所得の大企業ばかり儲けたことも、格差が広がる原因だとされます。
 税金の役割は、政府に属する中央銀行が貴金属などの制限なしに通貨を発行する現代日本では、回収しているだけで財源にはならず、むしろ消しているそうです。また、他の役割として、累進課税で格差を縮める所得再分配があり、累進課税で好況なら増税、不況なら減税をするビルトイン・スタビライザーもあり、たばこ税のように特定の経済活動にブレーキをかける政策の実現もあります。また、通貨の増え過ぎによるハイパーインフレを、税の徴収で通貨を消すことで防ぐ役割もあります。
 これらから判断して、現代日本の消費増税は、インフレではなくデフレを悪化させ、累進性がないので所得再分配にならず、不況でも減税されないのでさらに不況になり、さらに消費活動に文字通りブレーキをかけます。
 このようにデフレ不況の原因は政府の消費税などの増税であり、決して民間の低所得者の怠惰ではないのです。
 現代日本の財政は、対外純資産も豊富で、マクロでは経営黒字であり、国債は国内で低金利で消化されて、健全だと財務省も認めています。
 さらに、国債は民間に出回る通貨を増やすので、経済成長、年間2-4パーセントほどのインフレのためにはある程度増やし続けるのがどこの国でも当然だとされます。際限なく増やして良いわけではないのですが、デフレの現代日本はむしろ少ないのです。
 マクロ経済学において、IS-LM曲線からは、不況でGDPが伸びないときは、中央銀行が利下げなどをする金融緩和の政策と、政府が減税と政府支出増加などの積極的な財政政策をすべきだとされ、現代日本は前者が限界なので後者をすべきなのがしていないともされます。
 つまり、上手く行っている財政を不安視するあまりに、国債を増やさず、増税ばかりすることで、国民の生活が上手くいかなくなり、それを民間の努力不足にすり替えているというのが、積極財政や反緊縮からの結論です。
 『とべとべ手巻き寿司』劇中の「れいわてんぷく団」というネーミングとの関連は分かりませんが、この団体が現代日本の技術を利用しながら現代日本の悪いところばかり見ているのに対して、『逆資本論』で肯定された政党のれいわ新選組は、現代日本の国債は安全なのである程度増やせるとみなして財源として重視しています。

『クレヨンしんちゃん』だからこそ語れる経済の「消費」の観点

 『クレヨンしんちゃん』の考察に積極財政は難し過ぎるという意見もあるかもしれません。
 しかし、『クレヨンしんちゃん』はしょせん「おバカ」なしんのすけの行動がギャグで上手くいくだけで、『とべとべ手巻き寿司』で描かれた現実寄りの不況などの対策にならないのか、解像度の高い現実の不幸を描いたのが間違いだったのかと言われますと、私は否定します。
 むしろしんのすけだからこそ示せる、教科書でも説明しにくい経済の重要な概念があります。さらに、「がんばっている」つもりのひろしこそそれが見えていない可能性もあります。
 それは、「消費者の都合、自由な主観や余裕こそ経済を回しており、生産者の努力だけではどうにもならないことがある」現実です。

消費が増えないと生産性は上がらないし、イノベーションも生まれない

 まず、マルクスの労働価値説では、労働の量だけ商品には価値があるとされたのですが、これはのちの経済学では基本的に間違いだとされます。
 商品の価値は欲しがる、買う、使う、消費する側の需要と、作る、売る、生産する側の供給の比率などで決まり、需要が増えない限り、供給だけ増やしても売り上げは上がらないどころかかえって供給過多で下がる、空回りするおそれがあるのです。
 たとえばダイヤモンドは多くの労働で掘り出されているから価値が高いとマルクスは主張していますが、実際のダイヤの価値は現実的には、ありふれているか珍しいかの、買い手の都合で決まります。
 それをマルクスは、使用価値ではなく交換価値と表現しています。
 特に日本で長く続いたデフレ不況は、物価が下がることで「今買うより我慢した方が良い」と思わせるために、供給ではなく需要の不足する状態です。
 みさえは半額などに反応して買う場面が多いのですが、それは普段買う余裕がないためであり、デフレの最中は我慢しているときの方が多いはずです。 
 井上純一さんはこのような点で、「消費が増えないと生産性は上がらないし、イノベーションも生まれない。それを何度でも言いたい」と主張しています。また、「中国などと比べて、現代日本だけが経済成長していないのは日本人のがんばりが足りないからですか?」と質問し、『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』という漫画も書いています。
 「何度でも言いたい」というのは、それだけ現代日本に、消費や需要の不足するデフレ不況を、生産や供給の問題にすり替える主張が多いのでしょう。
 「日本の未来は明るくないかもしれないが、それでも誰かの幸せのためにがんばれ」というひろしの主張も、結局は「生産の努力が足りないから儲からないんだ。生産しないのは利己的な怠惰だ」という、「生産ばかり重視する」思考だとみられます。
 日曜劇場にも、『マンガで分かる心療内科』や『真実のカウンセリング』にもその気配はあります。

2024年4月29日閲覧

 また、インフレでは生産を重視する古典派経済学や、増税などの緊縮財政が、デフレでは消費を重視するケインズ経済学の、減税などの積極財政が有効だとされますが、やはりひろしも緊縮財政の思考にとらわれていると考えます。

 そのような高度な経済理論を、『クレヨンしんちゃん』に適用するのは無理がある、と思われる方もいるかもしれませんが、私はそう思いません。むしろ、『クレヨンしんちゃん』だからこそ、そのコミカルさや下品と取れるところに、「消費者の主観」、「努力に比例しない結果」が現れていると考えています。

ひろしの接待がしんのすけにより上手く行くのは「消費者心理」をつかむから

2024年4月29日閲覧
 

 特に扱うべきなのは、ひろしが取引を成功させる場面で、しばしばしんのすけが活躍することです。
 ひろしの営業の場面はあまり仕事として映らず、登場する多くは、取引先の接待です。
 そのとき何故かしんのすけを連れて来ることが多いのですが、たいていはひろしの真面目なサービスが単独では上手く行きません。
 たとえば、焼肉でひろしの提供する高級肉を、取引相手が「脂っぽい肉が最近食べられなくなった」と避けたり、盆栽好きの取引相手にひろしの勉強が通用しなかったりします。
 しかしそれを、しんのすけの焼肉のタレを混ぜる、盆栽の枝を適当に切るなどの一見ふざけた行動がかえって喜ばせて、取引を成功に導きます。
 また、ひろしが取引相手に編み物をプレゼントするとき、しんのすけの紹介で幼稚園園長に教わったところ、取引相手が元々丁寧な態度だったのですが、園長の知り合いだったので喜びました。
 これらに共通するのは、ひろしのがんばりも全く無駄とは限らないものの、それだけでは成功しないのを、しんのすけが助けることです。
 しかしそれはひろしのサービスの質やレベルが低いとは言い切れず、しんのすけのサービスの質やレベルが高いとも言えません。問題なのはサービスを受け取る側、取引先の主観なのです。
 主観だからこそ、「高級肉でも体に合わない」などのプラスをマイナスに変える感情でひろしを振り回すことがあれば、逆にしんのすけの礼儀知らずの行動のマイナスをプラスに変える予想外のところもあるのです。
 それは「ひろしやしんのすけのような社会的弱者でも、力を合わせれば社会的地位の高い強者を驚かせて結果を出せる」とみなす人間もいるでしょうが、それは浅い認識であり、重要なのは、「社会的地位の高い人間にも論理や数字で表せない主観で仕事を左右することがある」事実です。
 経済の需要と供給の論理では、供給を努力するほど、需要の側の高い要求にこたえられると一直線で考えることがあるのでしょうし、それで需要と供給を両方増やすことが経済の理想なのでしょう。
 しかし『クレヨンしんちゃん』で描かれたように、需要には、一見水準の高い高級肉でも体に合わないなどの数字で表せない主観があり、努力するほど結果が出るとも限らず、努力していないしんのすけの行動で結果が出ることもあるのです。

 

ひろしやみさえが消費する立場になったとき

 実際に、ひろしやみさえですら、珍しく高度なサービスや商品を消費する側になると、主観的にそれを喜べないときがあります。
 たとえば、酢乙女あいがしんのすけへの好意から、その家のひろしなどに高い質のはずのサービスを与えるときに、ひろしはあいが苦手だとして、あまり喜びません。
 みさえも近年のアニメ版で、家事代行サービスのときに、恥ずかしいところを先に掃除するなどをして、それでも片付け切れないところを全く動じずに片付けてくれる相手に申し訳なさを感じてかえって疲れていました。
 あいはともかく、その家に高給で雇われているはずの人間や、家事代行サービスの人間の「がんばり」をむしろ窮屈に思う主観が、ひろしやみさえにもあり、「がんばり」に結果が比例しないことを、自ら証明しているのです。
 ひろしが原作で四郎が東京大学を目指すと勘違いして取り入ろうとしたときはあっても、あいにはそうしたくないとすれば、あいやその家の人間の「がんばり」を認めていない主観があることになります。
 『新クレヨンしんちゃん』5巻で、ティッシュと見栄がきっかけで高級車店に入ったひろしやみさえは、明らかに窮屈な思いをしており、その店主の不誠実な態度だけでなく、「高度なサービスに喜べない主観」があったはずです。
 しんのすけも『花の天カス学園』で、学園のエリートポイントを多数稼ぐことによるサービスの高級料理より、焼きそばパンの方を好んでおり、「高度なサービス」に喜ばない主観、その高級料理などを提供する人間の「がんばり」を認めず空回りさせる主観があったはずです。
 実際に、『とべとべ手巻き寿司』ですら、充が幼稚園の絵に不快がりながら、しんのすけが充の推測と別の意図で描いた絵に喜ぶなど、しんのすけが相手の単純な計算の論理で表せない主観に訴えて成功させる可能性が示されており、それは「努力」に比例しない結果でした。
 それを充もしんのすけもひろしも最後に認識していないのです。

ひろしの接待が上手く行くのは、消費する相手に余裕があるから

 さらに重要なこととして、ひろしの接待が成功するのは、たいていは取引相手に金銭や地位の余裕があるときです。そのような人間だからこそひろしは取引を成功させたいはずです。
 だからこそ、相手も些細な主観で取引を左右させられるのです。
 つまり、ひろしの接待の成功は、金銭や地位に余裕のある企業の重役に、ひろしが「教科書通り」のような理屈に合った「高度」なサービスを提供して、そのプラスを相手が主観でマイナスに解釈して、そこにしんのすけの一見マイナスの行動がプラスに解釈されて成功するパターンがあり、重要なのはひろしのがんばりだけでなく、しんのすけの発想力だけでもなく、消費する側の主観と、主観で取引を決められるだけの客観的な余裕なのです。
 ひろしの「がんばり」は、実のところ、「子供の行動に喜ぶ主観で取引を左右出来るほど余裕のある企業を探す」最初が肝心なのであり、消費する側を単独で喜ばせる「がんばり」はあまり働いていないのです。
 実際に、『新クレヨンしんちゃん』1巻ではついに、ひろしの取引先ですら「不況で取引を縮小したい」、「責任はこちらにある」という誠実な相手がいました。そのときはひろしの予想外の台詞を勘違いして取引縮小の話を持ち帰りましたが、不況そのものは解決していません。
 ひろしは、不況でも例外的に利益を上げている取引相手を探すのは上手いのかもしれませんが、そのときもっとも「がんばっている」のは、その相手の企業の社員のはずです。
 そして、その消費者の主観に応えることも、客観的な消費する余裕に注目することも出来ないひろしは、自分の生産の「がんばり」にばかり注目して、消費が経済で重要なことを分かっていないと考えます。
 さらに、消費者の主観に訴えかける行動をしたしんのすけをほとんど認めず、「自分ががんばったから報われた」とばかり考えているならば、それは後述する「自分より下だと思っている人間の幸せが不幸である」「地位財」の心理もあるかもしれません。
 
 

「弱者」と「強者」の主観からの2方向の爽快感が、『とべとべ手巻き寿司』にはない



 酢乙女あいの部下や高級車店の「がんばり」、「高度なサービス」がしんのすけやひろしに通じないことは、「社会的強者の努力が弱者の主観の前に空回りする」ことで痛快さや爽快感があり、しんのすけがひろしの接待を成功させるのは、「社会的弱者の努力と言えない一見劣る行動が社会的強者の主観により大きな影響をもたらす」ことで、やはり痛快さや爽快感があるのでしょう。
 しかし『とべとべ手巻き寿司』は、「社会的弱者の充がいくら我慢しても、そのアイドルへの応援などすら空回りして、社会的強者に認められず、それを充より成功しているひろしが、努力不足のように主張する」ので、先に挙げた2例のどちらとも異なる悲惨な切り捨てだと考えます。

 また、充がしんのすけの絵に喜んだことにしても、充が絵に喜ぶか決める消費者として重要でも、一銭も払わない立場なので、経済を回すことは出来ず、「相手に金銭の余裕がなければ、主観に訴えるだけでは、買ってもらう成功にはならない」ことも示しています。


ひろしはそこまで「がんばっている」のか


 そもそもひろしは、本当に「がんばっている」のか、現代の視点からは疑わしいところがあります。
 「結果が出ていない時点で努力不足」、「頭が悪いのは考える努力の不足」、「頭を下げているだけで貢献していない」、「そもそも初登場した時代に恵まれているだけ」、「家族のためにしかがんばる様子がない」と言われる可能性があります。

 まず、ひろしが現代日本の基準で成功して見えるのは、単に連載開始当時の生活水準が今より高く、当時ではうだつの上がらない「万年係長」でも、今より相対的に高いためでしかないと、ネットでしばしば書かれます。

 メタレベルでは、「初登場した時代に恵まれているだけ」、連載当時の視点では、ひろしが充に言ったような「結果が出ていないなら努力不足」という冷徹な視点から「万年係長の時点で努力不足」ということになりかねません。

ひろしは「頭を下げているだけ」のときもあるのではないか

 さらに、ひろしの仕事での「がんばり」とは、たいてい取引先の接待や上司への謝罪ぐらいしか映らず、頭を下げたり社会的強者の機嫌をうかがったりしているだけにも映ります。
 『左ききのエレン』少年ジャンププラス版では、「天才になれない」らしい広告会社のサラリーマンの朝倉の視点で、周りに高圧的ながら高い業績を上げ、「努力」を認められるクリエイターの佐久間と対立しています。佐久間は自分の仕事を止めるために何人も来て頭を下げるサラリーマンに「あんた達サラリーマンは無駄な人数で頭を下げるだけで、そこで汗だくになって働くテレビマンの何倍もらっているんだ」と言っています。
 また、「ハードボイルド・ガンアクション」の『BLACK LAGOON』原作では、若いサラリーマンが、「国立行って入った」会社のパワハラなどの果てに会社の不正に利用されて海外の犯罪者に殺されかけ、解決したあと会社に戻れるにもかかわらず、上司を「あんた」呼ばわりして犯罪者の道を選びました。
 そのあと、「頭を下げるのが一番の仕事だった気がする」と振り返っています。
 「平凡な」サラリーマンである父親の目線で描く『クレヨンしんちゃん』と異なり、芸術や暴力の高い能力を重視する、言わば「野心的な」少年漫画やアクション漫画の場合、「ホワイトカラーのサラリーマンなど頭を下げているだけで本当の役には立たない」という視点があるのでしょう。
 『クレヨンしんちゃん』劇場版の『ケツだけ爆弾』で、地球を破壊する爆弾を処理するために爆弾から外せないシロを切り捨てようとした公務員の時雨院が、止めようとするひろしの土下座に「サラリーマンって土下座すれば良いと思っているから嫌いなんだよな」と言ったのもそれに近いとみられます。
 また、『ケツだけ爆弾』のひろしにしても、「家族の幸せ」のために爆弾処理を妨害して地球の全てを危険にさらしたのは事実であり、「あんたが頭を下げるだけで済むと思っているのか」と時雨院以外に言われれば苦しいでしょう。 
 少年漫画としてはコミカルなところもある『銀魂』で、銀時が、身内の知り合いである尾美が地球を破壊しかねないビーム兵器を積んだ体に改造されたのを助けるために、殺そうとする知り合いの武装警察などに土下座したときも、「頭を下げるだけではどうにもならない」現実が示されています。銀時の努力は尾美の精神を戻す時間稼ぎにはなったかもしれませんが、その命を救う結果にはなりませんでした。
 日曜劇場『下町ロケット ガウディ計画』では、普段医療にかかわらない人間が、珍しくかかわった医療で死亡事故を起こしたときに、その責任を取らされる医師に、「君達の普段の仕事と違って、こちらは人が死ぬんだよ。患者を生き返らせてみせろ!」と言われています。
 ひろしも普段人命を左右する仕事に慣れていないはずであり、その「がんばり」が普段の仕事のように「頭を下げる」、「社会的強者の機嫌をうかがう」、「手続きをする」だけではどうにもならないときがあると言えます。

ひろしも「頭を下げるだけで済まない」ことがあると認めている

 さらに充も、頭を下げてティッシュ配りはしており、それでも断られることがあるのは、「頭を下げるだけではがんばりのうちとして認められるとは限らない」現実を示していますが、それならばひろしも「頭を下げるだけのサラリーマン」として、時雨院に言われたように切り捨てられたのと同じになります。充が頭を下げていた働きをがんばりと認めなかったひろしは、時雨院と同じ「頭を下げる働きを認めない切り捨て」をしたとも言えます。
 実際に、ひろしも『もののけニンジャ珍風伝』では、子供を取り違えたという「病院関係者」に土下座されてもそれだけでは許せない態度でした。「人生にかかわること」だったためでしょう。『新クレヨンしんちゃん』9巻でも、引き抜きの話が「人違い」だったと知らされたひろしは、頭を下げて詫びる人間にそれでも「あんた、人生にかかわることを」と怒っており、やはり「頭を下げるだけでは許されない、認められない分野がある」と認めているのでしょう。
 しかしそれは時雨院も同じことであり、逆に充の我慢をがんばりと認めないならば、ひろしも「がんばり」として認められないときがあることになります。

ひろしは「お客様のため」に仕事をしているのか

 また、「誰かの幸せのためにがんばっている」と自称しているらしいひろしが「お客様」のことを考えて仕事をする場面が原作にもアニメ版にもほぼ見当たりません。
 アニメ版でひろしとみさえの心が入れ替わったときに、珍しくひろしの企業内部で「主婦をターゲットとした商品」が紹介され、ひろしの体のみさえは「主婦の観点からするとこんなものは買わない。これがサンキュッパなんて冗談じゃない。これだから男の考えることは。イチキュッパなら買うかも」と言って、かえって課長などに「大胆な提案」と認められました。これも、普段しんのすけがするような「一見マイナスの行動をプラスに解釈される」ことでしょう。
 また、ひろしはしんのすけのいたずらで丸坊主にせざるを得なかったとき、恥ずかしさから会社に遅刻して、別のことで「遅い」と怒る部長に、自分の部下の川口が土下座していると勘違いして、ひろしも頭を下げたのが、「丸坊主になって詫びた」と勘違いされてかえって許される、「一見マイナスの行動がプラスになる」結果を出しました。
 しかし、それは結局のところ、ひろしが普段「家族のために」、「部下のために」がんばることはあっても、「消費者のために」という気遣いはしていない可能性があります。
 なお、『3分ポッキリ大進撃』では、ひろしがヒーローに変身して部長を怪獣から助けたにもかかわらず、時間が戻りその記憶が消えたため部長がそれに感謝せず、ひろしは次の戦いで「どうせ記憶がなくなるなら」と「部長の馬鹿野郎」とテレビで叫びました。やはりひろしは、会社や取引相手が強い立場なので頭を下げたりへりくだったりしているだけで、その人間のためには「がんばって」いない可能性があります。「お客様」のことも考えていない可能性もあります。

ひろし達はそもそも「頭が悪い」ときもあるのではないか

 そして冷徹な視点として、そもそもひろしなどの主要人物が、「頭が悪い」ため、「努力していない」とみなされる可能性もあります。
 今回の映画で、原作と異なる点として、しんのすけが超能力を運動会などで明らかに使っていながらひろしやみさえが驚かないという不可解なところがあります。使用が控えめだったひまわりに気付かないのはまだうなずけますが。
 運動会と立てこもりのときに、2回もしんのすけの超能力を見て、充の超能力も見ていながら両方認識しない風間やよしながもさらに問題があります。
 これは本作の修復不能な問題であり、冷たく言えば、その「頭の悪い行動」が「考える努力をしていない」うちに入る可能性があります。
 超能力について、警察官は最初の「爆発」はともかく、充の立てこもりのときには認識しており、そのあと登場せず、「良いことも悪いこともしない」状態でしたからまだましではあります。 
 また、ひろしが原作番外編で、スーパーマンのような能力を得るネクタイを借りたのですが、朝にいきなり持参するネクタイを間違えて、引ったくりに油断して立ち向かいなぎ倒され、それでも必死に取り押さえて「がんばった」と認められました。しかしそれは、段取りから外れた「がんばり」であり、ネクタイを管理するという段取り通りの「がんばり」は足りず、それだけで展開という事実や視点という意見次第では「努力不足」だとみなされるかもしれません。
 さらにそのネクタイを使ったひまわりが壁を壊したときにみさえは、ネクタイには気付かずひまわりを病院に連れて行きました。
 そのあとネクタイでしんのすけが人を突き飛ばして結果的に通り魔を止めたり、おそらく無関係な車を破壊したりしたとき、自分が病気だと断定してみさえに伝えたのですが、しんのすけは事実として何があったか伝えず、みさえもひまわりほどには心配せず熱しか調べませんでした。
 しんのすけへの観察眼が甘いみさえも、事実を伝えず周りの心配もしないしんのすけも段取りを考える「がんばり」が足りませんでした。
 つまるところ野原家の人間は、段取り通りに行動することをしない「頭の悪い」場面があり、だからこそマイナスをプラスに変えることもありますが、その「頭の悪さ」だけで「がんばりが足りない」とみなされる危険もあります。
 また、取引先の接待でしんのすけにより成功してもほとんど感謝したり「次からはしんのすけのようにしてみよう」と考えたりしないのも、やはりひろしの「頭の悪さ」かもしれません。
 ひろしは劇場版3作目でSFの知識を活かしましたが、それにも限界がありました。

やはりひろしはデフレを分かっていない 

 『仮面ライダー』の俳優とひろしが共演したかつてのアニメ版での、「日本経済が沈没しそうなときに、会社という船をこがなければならない」という台詞は、財政破綻の可能性を恐れることと、その対策として生産ばかりがんばれという意味で二重に、現代日本のデフレ不況と内国債の低金利の環境には合いません。
 そのときのクイズのように、やはりひろしはデフレを分かっていないようです。

 その台詞が言われた時期から、日本は国債が国内で低金利で消化されて対外純資産が豊かだったので、破綻の確率は低かったのです。井上純一さんの言う通り、「心配なのは国民の生活の方」であり、その生産をがんばらせる前に、政府が減税や政府支出増加などで消費の余裕をもたらすべきだったのです。

消費増税で、充の消費がたばこのような悪だとみなされていないか

 井上純一さんの漫画は、「景気が悪いときは、高齢者に国がお金を出しても消えるのではなく、その消費で医療や福祉の業界に回って景気を支えている」とあり、むしろ充のように消費する余裕のない人間にこそ、国がお金を出せばその消費で景気を回すことが出来たのです。ビルトインスタビライザーと呼ばれる機能です。
 景気と消費の観点から、充は社会の役立たずでは決してありませんでした。
 それを充の元々がんばっていたアイドルへの消費活動を、ストーカーのように描くことで、「消費が自分の欲のための悪」という描き方になっているのは、やはり消費増税により、たばこ税のように消費にブレーキをかけるだけでなく、「消費がたばこのような悪」という思想になっていると考えられます。

現代日本の治安は上手く行っているところもある

 そして、現代日本で上手く行っている、身もふたもない視点として、治安があります。
 実のところ日本の犯罪認知件数は、この統計を見る限り、2002年から2021年までは減っており、決して治安が悪いとは言えないのです。
 積極財政の観点から批判される池上彰さんも、2013年頃の書籍で「日本の治安は良くなっているし、私が子供の頃は地方での殺人事件など多過ぎて報道されなかった」と書いています。
 この間日本の景気がデフレ不況で悪いにもかかわらず治安が悪いと言い切れないのは、多くの物語で見過ごされています。

https://www.npa.go.jp/publications/statistics/crime/r4_report.pdf

2024年4月29日閲覧

 『とべとべ手巻き寿司』のように、貧困を原因として犯罪が起きると警鐘を鳴らす物語は多いでしょうが、そもそもアメリカなどはともかく現代日本では統計上、説得力が薄いのです。
 むしろ貧しい人間を犯罪者予備軍のように扱う偏見を助長するかもしれません。

 2015年の『入門!犯罪心理学』で、「貧困が犯罪を招く統計はないし、日本は治安が良い」とあります。
 

充より、四郎のような模範的なところが現実的である

 充のような人物が原作にいるか探してみたところ、もっとも近いのは四郎、さらに、一応美人だとされていますが見栄っ張りで経済的に困りやすいまつざか梅、外見で差別されるとすれば園長も近そうです。
 充がまつざかや園長の前で立てこもりをしていれば、「社会的に困っている大人同士」で話も煩雑になったでしょう。
 しかし、四郎は原作単行本第50巻で「ブサイクだから」と犯罪に走るかのような偏見を、少し不審な行動をしただけでしんのすけに持たれたものの、むしろバイトなどはしんのすけの妨害がなければ真面目に行い、殺し屋やテロリストなどの犯罪者を2回取り押さえようとしたこともあります。むしろ四郎のように、貧しく「モテない」人間でも犯罪をしない方が現実味があります。
 ただ四郎が全く恵まれていないわけではなく、またずれ荘に来た刃物を持つ殺し屋や、銃を持つテロリストに立ち向かうのは、武器では劣っても数では優っていた、「仲間がいた」とも言えます。
 まつざか梅も、原作単行本46巻では危険そうな人物から園児を守ろうとしています。園長は基本的に言わずもがなの優しい人物です。 

 充に原作や『新クレヨンしんちゃん』で近い人物としては、『新』2巻の営業でインターホンを鳴らして迷惑をかけるのすら恐れるほど心配性の男性も考えられます。彼はしんのすけにより、「自分の行いで人が不幸になるのではなく、幸せになると考えれば良いんだ」と思い直して積極的になったのですが、営業に成功したかは分かりません。しかし、元々人に迷惑をかけたくない人物なので、充とは比較の難しいでしょう。
 また、充のような社会的に成功しない人間として、5巻にはけん玉やヨーヨーなどの趣味の流行に乗り遅れる若い男性もいましたが、元々の充の方が働いている描写や、ネット環境では上の様子があります。
 原作の自動車店『乙産』の男性や、原作序盤のデートで振られた男性なども近そうです。
 しかし比較が難しいので、これ以上の議論から外します。

社会的強者の悪い言動への制裁がないこともある近年の『新クレヨンしんちゃん』

 それより重要なのは、『新クレヨンしんちゃん』では社会的強者の悪い態度に制裁がされないところがあることです。
 3巻で四郎を東京大学にいると勘違いして合コンに来た名門女子大生が見下した態度を取ったことや、アクション仮面のスーツを勝手に着たアクターに付いて来たしんのすけが、別件で暴力を振るっていた若者を止めて、アクターが戦うふりをして陰で頭を下げたので暴行して「アホくさ」と去っただけのときがあります。
 女子大生もしんのすけに「ムカつく」と言っただけで制裁がなく、どちらも、しんのすけの行いの影響で、教授や職場の上司に露呈して立場が危うくなる程度の目には遭っても良かったはずです。
 そのような、社会的強者の悪い言動に罰がなく、社会的弱者が報われない展開が、『とべとべ手巻き寿司』に集約されたとも言えます。

 また、今回カンタムロボによりしんのすけが立ち向かったのは、アクション仮面のスーツでは、充が先述のアクターに暴力を振るう若者のような完全な悪役、「チンピラ」に映る危険があったためかもしれません。
 

「自分より下の人間の幸せが許せない」「地位財」の心理が、ひろしやしんのすけにすらあるのではないか

 また、経済学で、「周りと比較することで価値のある財産」、「地位財」という概念が、『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』にあります。「自分より下だと思っている人間の幸せが許せない」心理だと説明され、「人のすごく嫌なところではないか」という意見もありますが。
 これによれば、「アメリカの経営者は給与を公開されると、自分より下だと思っているあいつにだけは負けたくないと競争を激しくしてかえって格差が広がった」とあります。生活保護や福祉や公務員へのバッシングもこれで説明出来る可能性があります。
 充が幼稚園の園児の弁当のおかずの味に嫉妬する、「お前らの夢なんてかなわないからな」と言うのも近いでしょう。
 これは、『クレヨンしんちゃん』で主人公側で「善」だとされるしんのすけやひろしにもありそうです。
 原作でひろしは部下の川口より小遣いが少ないことに泣いていますし、しんのすけも普段飄々とした口調が、妹のひまわりと飼い犬のシロの前では「生意気」と取れるものになります。
 風間トオルもしんのすけにだけはやや高圧的な口調になります。みさえやまつざかや風間はそれぞれ、「母親」、「教員」、「エリートを自称する園児」としてしんのすけを下に見て出し抜かれることが多いのでしょうが、しんのすけにもそのような心理がひまわりとシロにはあるのでしょう。
 ひろしが充のそれまでの「がんばり」を認めなかったのも、「自分より下の人間の努力を認めたくない」心理かもしれません。
 また、しんのすけの家庭が現代日本の基準では恵まれているという視点で言えば、先述したアクターがアクション仮面のスーツを着たときに、「何でこんなみずぼらしい家に?」としんのすけも言っており、「オラの家にも来てくれないのに」という意味で、「自分より貧しい家の幸せが不幸である」心理はあるかもしれません。
 みさえがコンビニスイーツを元々しんのすけに食べさせていないとすれば、それも「下だと思う人間の幸せが許せない」のかもしれません。
 やはり、「地位財」で現代的な人間を見下すところまで、ひろしやしんのすけが相対的に立場が上昇してしまったかもしれません。

結末を『ドラゴンボール』の魔人ブウのように解決すべきだった

 結末を改善するならば、充が怪物と分離して巨人となり、逃げ遅れた引きこもりの人間やひろし達を救うために戦うのが良かったかもしれません。
 まず、劇中ではこの怪物について、充の被害者意識の救済しかしておらず、加害者として、他の被害者とも言える人間達を攻撃したことへの反省も出来ませんでした。
 特撮のシリーズで、子供の意識を持つ怪獣が人間を攻撃しながら自分の被害者意識ばかり訴えるところは、『ガメラ3 イリス覚醒』や漫画『ウルトラマン THE NEXT』にもあります。前者では、ガメラとギャオスの戦いで家族が巻き込まれ、「ギャオスも仲間をガメラに殺された」と主張する子供が、ギャオスの変種のイリスを育ててガメラに復讐しました。自分が人を攻撃したことに途中で気付き、そもそもその怪獣のイリスの元らしいギャオスが人間を攻撃したからこそ反撃されたという当たり前のことにも気付いたのか、操っていた綾奈は最終的に謝りました。
 また、逆に『ラストマン』ではいじめの被害者が大人になり復讐するときに無関係な人間を巻き込んだ事件で、警察官は「被害者面するな」と、被害者と加害者の側面の後者にだけ注目しています。『ラストマン』はそのように、「警察より、それに反発する犯罪者の方が悪い」と強引な主張になっているところがあります。
 やはり被害者が加害者になるときに、前者の救済と後者の償いの両立は難しいのでしょう。
 しかし、『ドラゴンボール』原作では、魔人ブウについて両立出来たとも考えられます。
 元々楽しんで人間を殺戮する魔人ブウは、生み出した魔導師にその戦いしか教えてもらえなかった、周りと穏やかに暮らす生き方を教えてもらえず従わされていた被害者とも言えました。そこで、低姿勢になっているとはいえ弱い人間のミスター・サタンに「そんな嫌な奴の言うことは聞かなくて良い」と言われてやめました。そのあと複雑な経緯で「善と悪」に分離し、「悪」がサタンすら攻撃したので、「善」の部分が「悪」と戦い、悟空が「悪」の部分だけを倒しました。こうして、被害者として救ってくれたサタンに恩を返すだけでなく、加害者の部分に責任を取ることが出来たわけです。
 これはファンタジー要素だからこそ出来ただけかもしれませんが、『とべとべ手巻き寿司』でも充がモンスターと分離して止めるために戦えば、自分が招いた被害の反省も、「応援してもらう」ことで孤独の救済も出来たかもしれません。
 

警察官やネギコがすべきだった「がんばり」

 

 さらに、ここに警察官がいて、引きこもりの人間などが救われるのを目撃する、あるいは彼らが容疑者として追いかけていた充に警察官自身が救われれば、さすがに考えを改める可能性も見出されました。
 犯罪者が警察官を何らかの事情で助けて、周りが複雑な感情を抱く物語もあるようですが、社会的弱者の充が社会的強者の警察官を助ければ、独特の驚きがあったでしょう。

 逆に強盗犯が、充の罪を押し付けられて、「俺は強盗はしたけれど、爆弾なんて持っていないし、立てこもりもしていない」と自首するなら、警察も充の件について間違いを認め、それなりの落としどころになったかもしれません。

 ネギコも、「運命は自分の力で切り開くものよ」と言っていますが、原作で充に該当する人物を一言かばったように、超能力について充の法的な心神耗弱や心神喪失が認められるような努力をして、警察官や裁判官に説明すべきだったとも言えます。ネギコは超能力を最後まで維持していますから。
 超常的な要素が社会に公表されることは『クレヨンしんちゃん』の劇場版シリーズで皆無ではないので、今回も充のためにそのようにすべきでした。ネギコこそ「充の幸せのために」がんばるべきだったのです。
 充が他の誰かのために身体的に「がんばり」、それを警察官が見て見直し、充が減刑されるように警察官やネギコが説明を「がんばる」なら、筋が通りました。

まとめ

 こうしてみますと、『とべとべ手巻き寿司』は、『クレヨンしんちゃん』シリーズの近年の劇場版の「がんばれ」と言って良いときと悪いときの分析の役には立ち、その上で「がんばれと言ってはいけなかったとき」を表す反面教師にはなります。また、権力と科学を批判していると言い切れないところが、逆説的に現代日本の「上手く行っているところ」を示しています。
 そして、『クレヨンしんちゃん』だからこそ示せる「消費者の主観」による、「弱者でも強者に負ける、言いなりになるとは限らないところ」、「努力に比例しない結果」も『とべとべ手巻き寿司』では間接的に示されながら、それをひろしが分かっていないのも、幾つかの観点から分かります。
 さらに、ひろしやしんのすけにすら、「自分より下だと思っている人間の幸せが許せない」「地位財」の心理の危険性があります。
 そこから、『クレヨンしんちゃん』シリーズと現代日本のこれからを考える参考になりました。

参考にした物語

アニメ映画

大根仁(監督・脚本),2023,『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦〜とべとべ手巻き寿司〜』,東宝
原恵一(監督,脚本),1997,『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』,東宝
髙橋渉(監督),うえのきみこ(脚本),2021,『クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』,東宝
橋本昌和(監督),うえのきみこ(脚本),2022,『クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』,東宝
京極尚彦(監督),高田亮(脚本),2020,『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』,東宝
原恵一(監督・脚本),2001,『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』,東宝
原恵一(監督・脚本),1999,『クレヨンしんちゃん 爆発!わくわく温泉大決戦』,東宝
ムトウユージ(監督),やすみ哲夫(脚本),2007,『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!』,東宝
本郷みつる(監督),本郷みつる・原恵一(脚本),1995,『クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望』,東宝
ムトウユージ(監督),ムトウユージ・きむらひでふみ(脚本),2005,『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ ブリブリ 3分ポッキリ大進撃』,東宝
原恵一(監督・脚本),2000,『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』,東宝

漫画

臼井儀人,1992-2010(発行期間),『クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
臼井儀人&UYスタジオ,2012-(発行期間,未完),『新クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)
井上純一/著,飯田泰之/監修,2018,『キミのお金はどこに消えるのか』,KADOKAWA
井上純一/著,アル・シャード/企画協力,2019,『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』,KADOKAWA
井上純一(著),アル・シャード(監修),2021,『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』,KADOKAWA
井上純一,2023,『逆資本論』,星海社
かっぴー(原作),nifuni(漫画),2017-(未完),『左ききのエレン』,集英社
ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2010-(発行期間,未完),『マンガで分かる心療内科』,少年画報社(出版社)
沢樹隆広(漫画),円谷プロダクション(監修),2008,『ウルトラマン THE NEXT』,ウェッジホールディングス(出版社)
広江礼威,2001-(未完),『BLACK LAGOON』,小学館
消費増税反対botちゃん(著),藤井聡(監修),2019,『マンガでわかる こんなに危ない!?消費増税』,ビジネス社

テレビアニメ

臼井儀人(原作),ムトウユージ(監督),川辺美奈子ほか(脚本),1992-(未完),『クレヨンしんちゃん』,テレビ朝日
藤田陽一ほか(監督),下山健人ほか(脚本),空知英秋(原作),2006年4月4日-2018年10月8日(放映期間),『銀魂』,テレビ東京系列(放映局)

特撮映画

石ノ森章太郎(原作),庵野秀明(監督・脚本),2023,『シン・仮面ライダー』,東映
金子修介(監督),伊藤和典ほか(脚本),1999,『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』,東宝(配給)
小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),2006,『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』,松竹(配給)

テレビドラマ

土井裕泰ほか(演出),益田千愛ほか(プロデュース),黒岩勉(脚本),2023,『ラストマン』,TBS系列
福澤克雄ほか(演出),飯田和孝ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),2023,『VIVANT』,TBS系列
飯田和孝(プロデュース),いずみ吉紘(脚本),江波戸哲夫(原作),2019,『集団左遷‼︎』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)

特撮テレビドラマ

村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)

参考文献

宇野常寛,2011,『ゼロ年代の想像力』,ハヤカワ書房
池上彰,2013,『これからの日本、経済より大切なこと』,飛鳥新社
池上彰,2014,『池上彰の「日本の教育」がよくわかる本』,PHP研究所
原田隆之,2015,『入門犯罪心理学』,筑摩書房
ムギタロー(著),井上智洋(監修),望月慎(監修),2022,『東大生が日本を100人の島に例えたら面白いほど経済がわかった!』,サンクチュアリ出版
清水雅博,2021,『倫理,政治・経済一問一答【完全版】3rd edition』,株式会社ナガセ
松尾匡,2019,『「反緊縮!」宣言』,亜紀書房
中野剛志,2019,『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室 基礎知識編』,ベストセラーズ
中野剛志,2019,『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室 戦略編』,ベストセラーズ
滝川好夫,2010,『ケインズ経済学』,ナツメ社


財務省の取り組み

https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm

2024年4月29日閲覧


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?