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8日間の毎日note

 ドアを開けた瞬間、愕然とした。

カーテンを引いたまま家を出た。

昼間でも薄暗い空間。
布越しに漏れてくる日の光で、部屋の有様がぼんやりと浮かび上がっていた。

鞄、化粧品、本。ありとあらゆるものが床に散乱している。
タンスの引き出しはもちろんのこと。ベット下の収納スペースまで引き出されて、からっぽになっていた。もともとそこに収まっていただろう服が、その周りに何か得体のしれない生き物みたいに暗い影を落としていた。
ベッドのマットレスはひっくり返り、木枠がむき出しになっている。
まるで部屋の中でちいさな竜巻が起こったかのごとき、荒れようだった。

なにがおこったんだ?と混乱する一方で、なにが起こったか冷静によくわかっている、二人の自分がいる。
わかっているけど、認めたくない。

空き巣!空き巣!空き巣!

頭の片隅でよめない赤い文字が点滅していた。

「なにか取られているものはありますか?」

うしろから声をかけられ、はっとする。
とっさにあたりを見渡して、足元に落ちている鞄に駆け寄った。

いつも使っているショルダーバック。
きのうも使ったばかり。
きのう、銀行に行った。
通帳を、入れっぱなしにしてある。

これだけ家探しをされて、金品が盗まれていないなんてこと、あり得るだろうか。この世知辛い世の中で貯金を失うなんて。
このさき、どうやって生きていけばいいんだろうか。
わざわざバックの中身を確認しなくても、結果はわかり切っているような気がした。待っているのは絶望。



しかし。

手を突っ込むと、失ったはずの通帳があっさり出てきた。
昨日記帳して、ビニールのケースにしまったそのまま。
誰かがあけたようなあとすらなかった。

よかった。嘘みたいだけど。お金は盗まれていない。
よかった。

そのほか確認してみても、何も取られたものはないようだった。

それでは泥棒は、いったい何のために部屋を荒らしたのか。

とりあえず、警察に連絡しなくちゃ。
スマートフォンに110を入力する。

かからない。

どうして。

もう一度。

かからない。



 夢の中ではいつも電話がつながらない。
番号が入力できなかったり、電波がおかしかったり、つながっても向こうの人があてにできなかったり。いつも助けが呼べなくて途方に暮れる。今日の夢も例外ではなかった。

けれども、空き巣に入られる夢は初めて見たな。
珍しい夢を見た時は、夢占いで検索してみることにしている。
友達からの受け売りでこんな習慣が付いたのだけれど、不思議なことにこれが結構当たったりする。夢は深層心理の現れなのだ。

空き巣に入られる夢がさすのは…
「誰かにプライバシーをおびやかされることの暗示。」

なるほど。
だから、部屋が荒れていてもお金が盗まれていなかったわけだ。
泥棒が赤裸々にしていったのは、私の生活そのものだったということか。

なぜ、こんな夢をみるのか。
正直、心あたりがありすぎた。
夢占いって本当にあたるんだな、と思う。

プライバシーをあばきにくるのが誰なのかわかっている。
部屋をあんな風にめちゃくちゃにした犯人は、他でもない、私自身だ。
こんな夢をみたのは、毎日文章を書くという試みを始めたことのせい。
間違いなく。

ゴールデンウィークという長い休暇、毎日、NOTEを更新することにした。
10日間続ける目標で、結果は8日連続投稿。
途中で、急きょ会社に出社することになったこととか、帰宅後にひどい頭痛に襲われたこととか、継続できなかった言い訳はいろいろあるのだけれど。
どう考えてもお粗末な結果に終わってしまったな、と思う。

けれども、やったことに意味はあって。
発見がたくさんあった。

 毎日何かを書こうとすることは、結局自分と深く向き合うことなんだと痛感した。毎日パソコンに向かうと、「あなたは何を書きたくて、書くことで何ができるのか。何が書けるのか」と問われているような気分になった。
自分の中にあるものを、ひたすら言葉にしていくことで、自分がどういう人間で、どういう考えや性質を持っているのかが見えてくる。

「自己表現」をしたいと意気込んで始めたけれど、自分で始めたのにも関わらず、途中からさらし者にされているというか、身ぐるみをはがされているような奇妙な気分になった。
空き巣の夢を見た原因も、そういう気分になっていたからに他ならない。

 365日投稿している人は本当にすごい。心から尊敬する。ましてや小説をあげているひと。どういう引き出しの多さだろうか。
たった8日間といえど、毎日書くことの大変さが身に染みてわかると同時に、あらゆる点で自分の未熟さにも気が付くことができた。
引き出しの少なさ、語彙の少なさ、そして何よりも、読む側への配慮の欠如。

 普通の投稿と毎日の投稿の大きな差は、時間があるかないかにある。
時間をかけて考えるということができない。
寝かせるということもできない。たくさん書いてストックしておけばいいんだろうけれど、そこまでの余力がなかった。

時間がないことでなにが起こるかというと、「書くことがなくなる」ということが一つ。それに続いて、「あるけど書きたくないものまで書いてしまう」という問題が起こる。書いてオープンにしたくないのだけど、書く価値のありそうなものがそれしかないという状況。

 映画の感想とかコラムみたいなものを書くことと、自分の発見を語る記事を書くことだと、どう考えても前者の方が頭も時間も使う。
毎日書くのだとすれば、私の力量上、自分のことを話す方が、続けられそうな気がしていた。

 けれどもこれが厄介で、書くことはあるとしても、それを晒したいかは別問題。深いことや本当に言いたいことを書こうとすると、どうしても内容が重たくなる。暗い部分にスポットが当たったりする。トラウマだったり、不満だったり。時に一人よがりにもなる。
 自分ではかなり納得して書いていても、後から見返してみると、これは誤解を招きかねない…という恐ろしい可能性に気が付いたりする。読み手がどう受け取るかの想像力の欠如。
政治家の笑ってしまうような失言が馬鹿にできなくなる。もっと言葉を大事に使おうと思った。


 文を書くたびに、自分自身の性質がマイナスよりだという自覚はあるけれど、なにもこの明るいことが賞賛される世の中で、それをさらけ出すこともないじゃないか、と思う。
負の自分語りをして、誰の得なんだという気持ちがタイピングの手をとめる。
けれど、その暗さも自分自身なのだ。

そうしてむりやり書いていくと、知られたくないのに書くという矛盾が生じて、ものすごく精神的に疲れてしまった。ずっとエッセイの方が楽だと思っていたけど、虚構の小説の方が精神的には穏やかでいられるかもしれない。

 自分の暗い部分を知られたくない理由は、「人からどう思われるかわからない恐怖」」に起因している。書いていると温かい言葉をくれる人がいる。とても嬉しくて、頑張ろう思える。

 そういう声がある中で、私の頭の中で、ずっと誰かがマイナスな言葉を放ち続けていた。それは、今まで出会ってきたうまが合わなかった人だったり、苦手な人だったりする。そういう人が、自分の精神の深いところに居座って、明るい賞賛を掻き消し、「お前、どうかしてるよ」と叫び続けているのだ。

けれども、毎日そういう葛藤にさいなまれて、それが通常運転になると気にすることにも疲れてくる。と、同時に、そういう人たちの顔は仮面に過ぎないと、あるところで気が付いた。 

嫌な言葉を投げつけてくる人なんていない。
そういう人の顔の下に隠れているのは、決まって「私」の顔なのだ。
自分がしていることを恥に思うのも自分。
楽しみととらえるのも自分。
私がありのままの私であろうとすることを邪魔する最大の敵は、誰でもない私自身なんだってことにこの8日間でやっと、気が付いた。
自己否定で凝り固まったもう一人の「私」に対峙したのである。

存在に気が付いたからと言って、簡単に葬り去ることはできない。
もうずっと長いこと、そこにいて幅をきかせていたのだから。
しかし、相手が他者ではなく、自分自身だと気が付いた今なら、今後の付き合い方に折り合いをつけることはできるだろう。
これは良い進歩だ。


 毎日文章を仕上げるということはたった一週間でもいい経験になった。
とはいえ、今後も続けるかと聞かれたら、答えはいいえなのだけど。なによりも、現時点でその力量がないことを思い知った。

でも、公開するかは別として、毎日なにかしら書いてみることは続けたいと思っている。
今のレベルは丁寧に書くことだ。
たくさん書いてみる作業は、間違いなく上達の近道だ。

そしてそれは、自分を知ることにもつながる。
自分がわかれば、本当に書きたいことも見えてくるだろう。

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