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先生に恋して vol.2

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そんな中学時代を過ごした私は、家から一番近い公立高校に行くことになった。

その公立高校は、宿題の量が多すぎることで有名だった。

私も一年生の夏までは部活が終わって帰宅してから、その異常な量の宿題と翌日の授業の予習を真面目にしていた。超スピードでやっても、深夜2時をまわることはザラだった。

リビングの机で教材を広げたまま眠る私を見て、母は本当に心配していた。

夏には『こんなアホみたいな量、真面目にやっとったら精神に異常をきたすわ』ということと『これ、私に必要のない無駄な宿題や』ということがわかったので、ロックンロールな精神で生きることにした。
そのおかげで私は精神崩壊しなくて済んだ。

(現に何人かの同級生は精神が破壊されてしまった。吹奏楽部だけでも数名が不登校になった。卒業時にはかなりの生徒がいなくなっていた。)

先生には『宿題出さんなら成績下げますよ!』と言われたので「お願いします」と答えた。

『宿題も出さないなんて、そんなことじゃ社会でやっていけませんよ!』と言われたので、「学校しか行ったことない奴が社会を語んなよ」と思ったが、さすがにそれは言わなかった。

『あなたみたいな人は特進クラスにいりません!』と言われたので、「私もそう思います。だから来年からは勝手に特進クラスに入れないでください」と答えた。もっと怒られた。翌年も入れられた。

二年の時の面談で、志望大学を担任に『この大学はね、行ける大学がない人が仕方なく通う学校なの。こんな大学、今受けたって受かりますよ』と言われたので「よっしゃ、やったぜ」と答えた。
めちゃくちゃ怒られた。
でも私は結局志望大学は変えず、すてきな友人と出会い、楽しい四年間を過ごした。

三者面談では担任に『この大学に行くって言うんです。お母さんからも何か言ってください』と言われた。
母は「大学は娘に任せてますから」と答えてくれた。
担任は心からのため息を母にぶつけて『親子揃って、、、』と言った。

それでも志望大学を変えなかった私は、突然進路指導室に呼ばれ、話したこともないリーゼントの男性教師に、私の志望大よりもずっと偏差値が高い国立大学を受けるように説得された。食い気味で断った。
するとAO入試だけでもいいから受けてくれと懇願された。どこで調べたのか『君は作文も得意なんだろう』と言われた。
「行きたくないから嫌です」と資料を返すと『せめて持ち帰って親御さんに相談しなさい』と言われた。「両親は、私にすべてを任せてくれていますので」と答えると、『いいから持って帰りなさい!』と怒られた。
この人リーゼントなのにロックじゃないな、と思った。

『何で宿題を出さないの!』と説教をされたので、しばし話を聞いていた。かなり怒られた。
『じゃあ、宿題をやったら提出しなさい!』と言われたので、はいとノートを渡した。その宿題は自分に必要だと感じていたのでやっていたけど、出しそびれてほったらかしていた。
出すか出さないかで私が宿題で得た知識は変わらないので、成績は下がるけどまあどうでもいいかと思っていた。
担任は『あなた、私の話をどんな気持ちで聞いていたの……』と、珍獣を見るような目で私を見つめた。「何で宿題をしてこなかったの、と言われればすみません、出してませんでしたとすぐ提出したのですが、“出さないの”と言われたので、話を聞いていました」と答えると、言葉を失っていた。

ある日、服装検査で私のスカートに、短くするために折り曲げた跡がついていると担任に言われた。
私は「誤解です。これはクリーニングに出した時についたハンガーのあとです」と答えたが、信じてもらえなかった。私は本当にそんなことをしていなかった。中3の時なんて、入学式で前に立ち『制服はこのように着てください』と見本になっていたような、歩く生徒手帳のような人なのである。
私のことをほんの少しでも知っている人なら、私がスカートを短くしないことは当然なのだが、担任は勉強時間や宿題の提出状況しか知らないので(高3の時に、出席番号が私の前の生徒と私の名前を間違えたときはぎょっとした。まだ名前わからんやったんか)、そんなことはわからなかった。
私は自分の日頃の行いのせいだと思い、それ以上反論はしなかったが、母にこんなことがあったんだと話した。母はとても腹を立ててくれた。
母は三者面談の時に担任にそれを話してくれた。
担任は『そう、それが心外だったのね』と言った。
謝らなかった。
私はものすごく腹が立って、母と担任の前で泣いた。
担任は何で泣いたかわかっていないと思う。

──あれ、今度は私が通っていた高校の悪口になってしまった。あと私、高校でもあんまり丸くなってなかった。

次回こそ、惚れてまうやろ、な話ができますように。

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