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◯◯ですよ、の「よ」が要らない

様々な人と話をしていて、いらっとすることがある。
話のヒゲというが、「えー」「あー」といった言葉もそうなのだが、それよりも「そうなんですよ」「知ってますよ」といったときの「よ」がとてもきになる。

文法的に言えば、終助詞の「よ」になる。
これに関して調べると、様々な論文が表示されるので、意味については改めて書く必要もないかもしれないが、AとBの2者間に情報ギャップがあるばあいに、終助詞「よ」がつくと、不快感を与えるというのが、私の意見だ。


なぜこの文章を書いたかと言うと、まさにそのような発言をしている人の文章をたまたま見てしまったところ、こんな表現があった。

お守りは売り物ですよね?買います。

とある方の発信している情報から
筆者が一部要約


文章全体から醸し出す強烈な違和感と、他者を思いやることができない、考えることなく生きてきたのであろう、人生観が現れている文章だった。
これは最高に気持ちが悪い文章である。

ぜひこの文章を読んでくれた人には考えてほしい。なぜ私がその様に感じたのか。


第一に、お守りは売りものではなく、ありがたく頂戴するのである。実際に金銭の授受があるときに先方は「◯◯円お納めください」と言っているのを聞いたことはないだろうか。
そういう細かな言葉遣いを意識せず生きてきている人が、こういう発言をしてしまうのだろう。そういう人に限って達意の文章を書くことができないばかりではなく、周囲を否定し、自分中心主義に陥るのである。

この文章を読んだとき、私と過去付き合いのあった自営業者(といってもほぼフリーターのような人だった)を思い出した。
付き合い上、仕事を発注することも会ったが、十分な仕事をしているようで、全く必要なレベルに達しておらずこちらは非常に困ったし、別経営者も同じことを言っていて、ああそうなのだろうと。

相手の期待を少しでも超えるような仕事をすることから逃げてきたため、評価してくれる人さえいれば良いという、自分の世界に籠もってしまったような印象を受けた。このままどうなるのかは知らないし、どこかで行き詰まるだろうにと思うが、すごい偉いと褒められて子供のように生きていれば多分幸せだろう、泣きついてきたとしても私の知ったことではないのである。

さて本題に戻る。続いて、今回の終助詞よ、ねの2つである。
この文章を活かして聞くなら「お守りは売り物ですか」「~ではありませんか」という聞き方になるのではないか。

この文章を活かすこと自体が不可能なので、正しくは「では、お納めさせてください」「頂戴できて嬉しいです」という反応、発言が良いと思われる。

このように、正しく日本語を使うこともできず、訂正される機会もなく恐らく、ただ漫然と人生を生きてきただけであろう人を変えるにはどうしたら良いのだろうか。
昨日の投稿と同様に、これがその人の人気となるか、ならないかの分水嶺となるため、指摘してもこちらにとって良いことになるのかは一切わからない。

いずれにせよ、昨日同様で恐縮だが、内省すべきなのだ。
過剰な自意識は自分を殺すのだ。それを見ていても周囲は何も言わない、自分で自分を変えるしか無い。


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