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自分を知る、自分を生きる。

「もっと自信持ったらいいのに。」

確かに私は、幼い頃から発言の節々に自信の無さが滲み出ている。
相手に褒められてもその言葉を素直に受け止められない。自分のことを嫌いなわけじゃないけど自分を認められない。本当にやりたいこと、本当に好きなもの、本当の自分。

本当の自分なんて自分が一番分からなかった。


ヤッチャの学校について


“地域を通して人と自分と向き合う1か月”

私が変わるきっかけとなったプログラムのコンセプトである。

友達が参加していたのをきっかけにヤッチャの学校について調べるようになった。本来参加しようと思っていた期には訳あって参加することが出来ず、その1年後、2023年の夏に参加を決意した。ヤッチャの学校を知ったとき、直感で「絶対に最高の夏になる」と思った。

結論からいうと、この1ヶ月間を通してその直感は間違えではなかったと断言できる。たくさんのことを学び、仲間ができた。この1か月を一言で表すと、“変わるきっかけをつくってくれた”と言えるだろう。

現在ヤッチャの学校を終え1か月以上が経過し、今日までヤッチャの学校で起こった出来事をゆっくりと消化し整理してきた。そして最近ようやく考えがまとまってきたので、自分と向き合い考えたことをこのnoteに残していこうと思う。

※言語力が乏しいため読みづらい部分があると思いますが、温かい目で見てもらえると嬉しいです。




これまで

私ってこんな人間。

「文ちゃんって、優しくていい子だよね。」
友達にも、先生にも、家族にも言われたことのある言葉。基本的に人を笑わせたり、人の相談に乗ったり、とにかく人と関わることが好きだ。優しいと言われる自分が好きで、優しいことこそが私なのだと思っていた。

小学校の高学年あたりから、いじられることが増えそれが苦痛だった。人を笑わせるのは好きなのに相手に何かを言われて笑われるのはとても怖い。嫌だとも言えなかったし、そこで何かを言える勇気がなかった。このような経験から、人はバカにしない、相手が悲しむことは言わない、悲しんでいる人がいたら味方になってあげる。という自分の中でのルールができた。しかしそれはその後どんな場面でも、私は優しくいなきゃだめで相手の味方でいなきゃいけないと思うきっかけになってしまった。加えて、相手の機嫌を取るように相手の話を聞き、自分の意見を言えなくなったのもこの時期からだった。

優しいとか、いい子と言われるのは確かに嬉しかった。でもそれは最初だけで実際は途中から苦しくなる。昔から相手の悩みや考えを全部受け取りすぎて、結果、自分の悩みになることが悩みだった。でも、やっぱり頼ってくれたことは嬉しいので自分にも何かできると思って引き受ける。そんなことを繰り返していたらいつの間にか「どうやったらこの苦しみから解放されるのだろう」と考えるようになった。

その考えが強くなったのが短大に進学してから。小さい学校だったのでとにかく人同士の距離が近い。人間関係で絶対に苦しみたくないという強い意志を持っていたので、いつの間にか人との関係性が希薄になり、広く浅く付き合うようになった。短大の人たちは好きだったけど、もどかしかった。このもどかしさはきっと、“自分が傷つきたくない” ために取った行動が周りから優しいと見えるのが違和感だったから。私にとって優しいとは呪縛でしかない。大袈裟だが当時の自分は本気でそう思っていた。相談されることが嬉しいけど苦痛だった。本当のことを言えなかったのは嫌われたくないから。本当はこのような理由なのに、こんな自分が優しいと言われていいのだろうか。

( 当時は、周りにたくさん人がいるのにずっとひとりだと思っていた。そんなときに聞いていた曲。)

気づきと変化

本音で話す。
それは、私にとって苦痛で残酷なもの。なぜそう感じるのか。いろいろ考えたが、自分の軸が定まっていないことが原因だったと考える。

友達に相談されたとき、自分の返答が相手の思っていたものと違ったらすごく怖い。せっかく私に相談してくれたのに答えを出してあげられなかったと後悔する。自分の意見を求められたときに、的外れなことを言ったのではないかと思ってしまう。この経験はどちらも自分の自信の無さが関係していると感じた。自分の考えに自信がない。そうなってしまったのは、今までの色んな経験がそうさせたのだと思う。私自身だけの問題ではない。でも、それをどこかで感じていながら放置してきたのも事実。私はずっと自分から逃げて過去と向き合うことをしなかった。

しかし、そんな私も遂に自分と向き合うときが来た。ヤッチャの学校に参加しメンバーと本気でぶつかったのだ。自分の意見と相手の気持ちを天秤にかけたとき、今までの私は迷わず相手の気持ちを優先した。その方が相手の心も落ち着くし、何よりことが早く解決する。しかし、それは裏を返せば相手と向き合うことを避け、とにかくことを荒立てたくないという気持ちが強かったから取った行動であり、自分の保身のためだったと気づいた。

葛藤

メンバーとの衝突で、私は相手に寄り添いたいという気持ちと、自分の殻を破り本音をさらけ出したいという気持ちで葛藤していた。

チームで行動していると少し嫌だなと思うことが起こる。人間だしそういうことを思うことは必然的なことだと思う。あのとき、そのような状況を自分なりによくしようと考えてきたが、自分がした行動が誰かにとって迷惑だったりすることもあるということを学んだ。避けていたことが起きてしまい、あのときはどうしようもなく苦しくて恥ずかしかった。正直、自分が取った行動に後悔した。

本音

本当は、私だって自由にありのままの姿を曝け出したい。けど、「私に期待してくれる人、頼ってくれる人に対してその行動を取ることが果たして正解なのか?」と余計なことを考えてしまう。さらに、本心を言おうとすると上手く表現できなくて感情的になってしまう。感情的になると頭が真っ白になって言いたいことが頭に浮かんでこない。涙が出る。涙が出たら終わり、冷静さを失って何も言えない。それだけは避けたくて冷静さを保とうと必死だった。

すぐに言葉間違えそうで
傷つけたり怒らせたりしそうで
気をつけるようにしていたら
ただ喋れなくなっていた

Small world/BUMP OF CHICKEN


感情的にならずに自分をコントロールするには、その場面にあった自分を作るのが一番楽だった。10人いたら10パターンの自分がいるように、状況に応じて自分を変化させる。それがきっと「いい子」とか「やさしい」に繋がったのだと思う。逆にさっきまでと雰囲気が違うことで周りを混乱させたこともあった。八方美人と言えばそうかもしれない。それに気分屋でもある。しかし、どれも本当の自分で、どの自分も全部嘘ではない。

そして、何よりも言いたいのが私は基本、興味ない人には興味がない。このことをもっと早い段階で相手に伝えていれば、もっと早く解決していたのかもしれない。しかし、自分の変なプライドというか、「ここまで巻き込んどいて容易く終わらせてたまるか!」という悪魔の部分が出てきて言えなかった。ここは本当に子どもだったなと反省している。(ごめんね。)

この出来事で、気づいたことがある。それは、私も1人の人間だということだ。何となく自分のパンクするラインが分かっていて、パンクしたとき自分がどうなるか分かっていたから葛藤したし、全部を全力でできなかった。けどそれが結果的に、誰かを悩ませ傷つけたのも事実。この1か月以上、ずっとヤッチャの学校のことを振り返っていた。あの時の選択は正しかったのか、たくさん考えた。

結論、私は自分のやったことが間違えだったとは思わない。

今までの私なら、この時点で「そう思う自分は人のことを考えられないダメな奴だ」と自分を責めていたと思う。でも、今は違う。私は十分やった。
そして、このことに気づけたのはヤッチャの学校という場がとても許された場だったから。一緒に過ごし、長く話した仲間。温かく見守ってくれる大人。そんな恵まれた環境だから自分の本音を出せたのだと思う。それに見ている人は必ずいる。気づいてくれる。「よくやったね」と認めてくれる。

向き合い考えること

でも、現実は上手く行かないことの方が多い。色々な人が居て、みんな生きるのに必死だし、余裕がなくて人にやさしくできないことが多い。

そんな世の中で、私はどう生きていけばいいのか。

そう考えたとき、やっぱり残るのは自分で、自分が自分を上手くコントロールして、認めてあげるしかないと思った。自分を知らなきゃ、自分を大切にしなきゃ、人にも優しくできないと気づいた。

そんな気づきともう1つ。ヤッチャの学校に来る前と変わったことがある。私は今まで過去を振り返ることがなかった。常に未来のことを考えて生きてきた。しかし、それは考えることを放棄してきたと言える。嫌な過去、トラウマなどは黒く塗りつぶして断片的な記憶しかない。そうやって自分を知ることから逃げて来た。しかし、ヤッチャの学校でリフレクションを通し自分の過去と痛いほど向き合った。そうすることで、自分の大切にしている価値観や信念が分かるようになった。なぜそう考えるようになったかを知れた。過去と向き合うことが何となくかっこ悪いことだと思っていたけど、自分のたどってきたことに目を向けず、蓋をすることの方が何倍も恥ずかしいと思った。( 個人の意見です。) これからは、過去と向き合い、手放し、自分をもっとパワーアップさせていきたい。

まとめ

自分を愛してくれる人をどれくらい愛せているのか

私はヤッチャの学校で「愛される人になりたい」という目的地を設定した。でも正直どこかしっくりこなくて愛されている実感はあるのに腑に落ちなかった。その違和感は、そもそも自分が自分を愛せていないということ、そして自分がその愛を返せていなかったからだと気づいた。そしてこのことに気づけたことで自分が出会った人に、自分がどれだけ守られてきたかを実感した。家族、友達、地域の人、日南で出会ったたくさんの人、そんな奇跡的に出会えた人たちに、これからは自分も今まで以上に愛を与えられる人になりたい。

ヤッチャの学校 卒業式にて

自分を知る

今までは、周りと違うことに敏感になりそんな自分を責めていたけれど、今はそんな自分を「自分はこういう特徴があってこういう気質があるから人と違って当たり前なんだ。」と少し思えるようになった。何かのせいに出来ることが私にとっては楽でとても救われる。自分を知ることで、自分にあえておもりをつけなくていいということを知れた。しかし、こんなことを言っていてもたまに戸惑うこともある。未だに気にしすぎてしまうこともある。


でも、それでいい。これが私だから。この私を愛してくれる人がこの世にたくさんいる。こんな心強いことを知れた私はとても幸せ者だと思う。


生きるをする / マカロニえんぴつ









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