記号論理学はアリストテレスをどう乗り越えたか?①
記号論理学はどう伝統論理学を乗り越えたか?
論理学とは
論理学は紀元前3世紀の哲学者・アリストテレスから始まったとされる学問のひとつである。論理学では文(論理学では命題といったりもする)どうしの関係について考え、正しい推論とはどのようなものかについて考える。ひとことで言えば思考を整理する学問といえるだろう。
アリストテレスの論理学はおよそ2000年以上もの間、新たな発見のない完成された学問体系だと信じられてきた。
ところが19世紀後半から20世紀初頭にかけてG.フレーゲやB.ラッセルらを中心に急速に論理学の記号化が進み、従来棚上げされてきたような問題にクリアな視点が当たるようになったのだ。
19世紀以降のこの記号表記による論理学を記号論理学といったり、数学的な表記を用いるので数理論理学といったりするが、現代で論理学といえばふつうこの記号論理学のことを指す。それに対しアリストテレスの論理学を伝統論理学という。
現代の論理学の教科書や入門書にはよくアリストテレスの伝統論理学が2000年以上もの間変化がなかったこと、そして19世紀に集合論の観点から論理学が打ち立てられたときに伝統論理学が乗り越えられたことだけが書かれている。その際どのようにして記号論理学が伝統論理学を乗り越えたのかについて語られることは少ないように思う。
本稿では伝統論理学と記号論理学を比較し、記号論理学が伝統論理学を乗り越えたとはどのような意味なのかについて考察したい。
記号論理学の強み
記号論理学には;
論理式どうしからいくつかの推論規則を用いて結論を導くのが記号論理学である。
$${P}$$や$${Q}$$という述語(…は赤い、…は死ぬなど)にはどんな述語も解釈できうる*¹。そしてここでの変項$${x,y,z\cdots}$$(変数に同じ、ただし数に限らず述語の項(主語や目的後など)も当てはまるので変項という)はある定項$${a,b,c\cdots}$$(定数に同じ、ただし項となれるものなので私、あなた、ソクラテスなども当てはまる)を代入することが可能である。
したがって、このような論理式は解釈次第でどのような内容を当てはめることもできるし、それを形式だけで判断できるということになる。この形式化こそが記号論理学の強みだ。
伝統論理学は別に弱くない
ここまで形式化することで汎用的に論理式を使えることを押してきた。しかし、伝統論理学における三段論法でもこの置き換え自体はしているじゃないか(単語や述語の置換すればよい)と思われるだろう。物理的に文が長くなったり短くなったりするだろうが実際にその通りだ。
このふたつはどちらも伝統論理学における(定言)三段論法*²だが、人間⇒魚、死ぬ⇒泳げる、ソクラテス⇒サメに置き換えているだけだとわかるだろう。
伝統論理学にしろ記号論理学にしろ論理学のこの強みは共通している。すなわち形式を揃えれば同じ推論で結論を導くことができるという強みだ。
そもそもアリストテレス論理学では三段論法はほぼ完成されており、これはいわば流派の違いに過ぎないように感じる。
ならば、一体、記号論理学がアリストテレス論理学を超えたと言われる所以はどこにあるのだろうか?
伝統論理学の抱える困難
三段論法のように、いくつかの前提から結論を出す行為を推論という。記号論理学はこの推論を形式的に表す方法を生み出した。
形式的であれば何が嬉しいか?それは論理学が数学の一分野として扱えるようになったことだ。それはつまり機械的に教えることができるということでもある。
たしかに伝統論理学でプログラミングや電子回路を作れるとは思えない。というのも伝統論理学は明確に不足を抱えているからだ。
次回の記事ではその不足について見ていく。
脚注
*1;厳密には全ての述語ではない。述語自身を変項に持たない述語に限られる。ただ普段の会話においては二階の述語が現れるのも特殊な場合なので、ここでの述語は一階の述語‥すなわちふつうの述語(…は赤い、…は死ぬなど)と解釈して欲しい。
*2;アリストテレスの伝統論理学はその推論形式に三段論法のみを採用している性格から三段論法論理学($${\textit{Syllogism Logic}}$$)とも呼ばれる。アリストテレスにおいては、三段論法は定言三段論法と仮言三段論法、選言三段論法の3つに大きく分かれる(仮言選言三段論法などもある)。
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