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記号論理学はアリストテレスをどう乗り越えたのか?③

前回の記事では記号論理学とは伝統論理学をカバーする拡張された論理学なのであり、伝統論理学は誤りでは無いことを確認した。今回はおまけでアリストテレス論理学が負っていた不足について見ていく。


0.命題論理

命題論理とは項をもたない命題(原子命題)と命題どうしを演算子で結んだ複合命題を使って推論を行う論理学のことだ。項を持たないことから述語論理が一項述(Pa)、二項述語(Pab)というように0項述語といったりもする。

すなわち命題論理は$${P\to Q}$$(PならばQ)のような、最も素朴とも言える論理式について扱うのだが、この命題論理という概念は伝統論理学のなかではすっぽりと抜け落ちている箇所である。

記号論理学から論理学を学んだ人は命題論理について殆ど触れられていないことに疑問を持つに違いない。というのも命題論理は論理学の初歩として一番最初に習う、基礎的部分だからだ。

それに私たちの日常の会話でも;
「晴れたら出かけよう」などは「全ての人間は死ぬ」といった量化の形より一層ふつうなものだ。(量化も別にふつうに会話の中に登場しうるが)

この基礎的部分が伝統論理学に欠けていたのは、アリストテレスが論理学の形式化にあたり名辞(個体、項のような概念)、質(肯定/否定)、量化、及び様相に拘っていたためだ。(欠けていたというより単に関心がなかったという方が正確かもしれない)

この命題論理自体は中世スコラ哲学によりすでに発見されていたという。したがってアリストテレスの論理学はその意味では中世においてすでに乗り越えられていた。ただし、この命題論理と述語論理をひとつの理論のもとにまとめ上げたのはやはり記号論理学(の開拓者であるフレーゲ)の功績だろう。

Ⅲ.様相論理学

様相とは「必然」や「可能」、「不可能」、「偶然」といった概念のことである。様相文の推論は命題論理や述語論理だけから考えることが難しいことは古代から知られていた。

この様相概念が論理学に厳密に落とし込まれたのは1940年代以降である。そのため様相論理学は、記号論理学‥つまり古典論理学以降であり、非古典論理学の分野となる。

アリストテレス論理学の範囲でも様相の存在は確認され、[様相論理学の創始者にふさわしい](『哲学思想辞典』,p.1632)。ただし、アリストテレスの様相概念は難点が指摘されており、その観点ではアリストテレスの伝統論理学の中では未完成な部分であった

様相論理は非古典論理において、可能世界という道具により意味論を与えられようやく全貌が見えてきた分野である。また、アリストテレスにより完成したとされてきた論理学の中でも様相論理に関しては近代から研究がライプニッツなどにより進められており、論理学というものを深掘りするきっかけにもなったといえる。

そして非古典論理学へ

古典論理というと伝統論理とごちゃ混ぜになってしまいそうだが、この古典とは英語の|classical≪クラシカル≫の訳語である。単に古いと言う意味で使うこともあるが学問において古典○○とつくものは「基礎的な」の意味で用いられることがほとんどだ。したがって古典論理とはフレーゲに始まる記号論理学そのものと言える。

基礎的な学問には応用的な学問が地続きなように、論理学においても命題論理と述語論理を拡張する形の論理学を非古典論理と呼ぶ。

現代の古典論理学、非古典論理学はなにもアリストテレスの論理学のみをカバーするのではなく広範に中世や近代において研究されてきた命題論理や様相論理まで含めて一つの体系にまとめ上げるという試みである。

アリストテレスが論理学を創始して2000年以上ものあいだ、論理学は哲学の分野であった。しかし、19世紀後半からその舞台を数学に移すこととなる。

ところが、非古典論理の一部は、様相に始まり、義務時制知識自由意志などの哲学的観念をも論理学に含める動きである。したがって、現代の論理学は純粋に数学的な性格をもつものと、その議論領域に哲学的命題をもつものとに分かれたともいえる。

哲学者が論理学を学ぶ意義はそこにある。哲学者にとって論理学はただ思考をクリアにできるだけではなく、哲学的難点を解決できる道が開ける可能性が眠っているのだ。

アリストテレスの論理学が生まれておよそ2300年かけ記号論理学にいきついた。記号論理学が生まれてから、まだ200年にも満たない。まだまだこれからの発展が楽しみな分野である。




*1;例えばアリストテレスは現然性(現実性に同じ)、必然性、蓋然性の3つを様相として定めたが、蓋然性はたしかに可能性らしき要素もあるものの可能性そのものとは言えない(蓋然性とは必然を100%不可能を0%としたとき、どの程度の割合で確からしいかという意味で、確率的な意味合いをもつ)。またいくつかは必然性様相に関する困難もあるという。

不勉強のためアリストテレスの様相論理がよくわかってないのであまり詳しく解説できないが、伝統論理学という学問の内に収まっていない形で、アリストテレスは現実性と可能性の対応について考えていると思う。

APPENDIX
記号論理学による拡張された三段論法

三段論法はその名の通り3行で論証を終えるスタイルだ。そのため、結論を除くと二つの前提しか認められない。

前提をいくらでもつけることができ、ほとんどの困難を解決できるようになった記号論理学を前にして今さら三段論法をやる意味なんてあるのだろうか?

私はあると思っている。理由は二つだ。
一つは記号論理学がその名の通り記号化に頼るために学習していない人によりとっつきにくいと感じさせてしまうということ。

もう一つは一つ目にも関わるが、たった3行の自然言語で書かれた文章は理解するのが簡単だからだ。要するに3行のどこかに疑わしき部分があればそこを修正すればいいと直感的にも分かるという点だ。

火星に住む人間は火星人だ(前提1)
ソクラテスは火星に住んでいる(前提2)
────────
∴ソクラテスは火星人だ(結論)

これはあからさますぎるが、直観的に「ソクラテスは火星人のはずがない」と思うなら前提のどこかが誤っているはずだ​───ソクラテスは火星に住んでいなかった、したがって前提2は誤りだとわかる。

これほどあからさまさまではなくとも結論が信じられないような論証はたくさんあるだろう。しかし、誤りがどこにあるのか分からなければ立ち往生するだけだろうか?

いや、三段論法の形になっていて結論が疑わしいなら前提のどちらかが誤っている可能性を考えることから始めるべきだ。前提1を誤りとすると…前提2を誤りだとすると…

このように誤った前提がないかを調べに行けばいい。そして前提に誤りがないのであれば隠れた前提や付け加えるべき前提がないかを探しにいく。三段論法の形にまとめてはいるが、記号論理を学んだあなたは今や三段論法に縛られていないのだから前提はいくら増やしても良い。


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