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嘘つきのパラドックスの解決~「この文は嘘である」は嘘か本当か?~

嘘つきのクレタ人のパラドックス

嘘つきのクレタ人のパラドックスはメガラ派の哲学者エウブリデスにより唱えられたパラドックスだ。

クレタ人はその全員がつねに嘘しか言わない嘘つきであることが知られている。クレタ人のエピメニデスは次のように言った;
「すべてのクレタ人は嘘つきだ」

この発言が真なら、エピメニデスが本当のことを言ったことになる。しかし、エピメニデスはクレタ人なので嘘しか言わないはずだ。(矛盾)

この発言が偽なら、"すべてのクレタ人は嘘つきというわけではない"$${\iff}$$”クレタ人の中には嘘つきでない人もいる”。しかし、前提よりクレタ人はもれなく全員が嘘つきのはずだ。(矛盾)

したがって、この発言は真と仮定しても偽と仮定しても矛盾が出ることになる。このように真と仮定しても偽と仮定しても矛盾が出るものをパラドックスという。



嘘つきのパラドックス

この文は偽である

嘘つき文

ではこれはどうか。上の文を真と仮定すると「この文は偽である」という文が真であることになる。するとその文は偽であるはずなので矛盾する。

偽と仮定すると「この文は偽である」は偽であるはずなので本当のことを言っていることになる。これは矛盾である。

したがって「この文は偽である」はパラドックスの文だ。


自己言及のパラドックス

クレタ人のパラドックスを含めた嘘つきのパラドックスはその文(/発話/命題)自身に言及することで始まってしまうため自己言及のパラドックスと呼ばれる。

どういうことか?クレタ人の例では「すべてのクレタ人は嘘つきだ」という発話自体が嘘か本当かを問うていた。

同様に、「この文は偽である」はもっとわかりやすく、「この文」というその文がその文自身に言及している。「この発言は嘘だ」「この文字列は偽である」などいくらでも自己言及のパラドックスは考えられる。


T-schema

日常言語で真である偽であるといっているとどうしても意味を考えていると何を言っているのか分からなくなってしまいがちだ。したがってある程度判断するための形式化が必要になってくる。そのためにまずT-schemaというものを導入する。

T-schemaは発話内容が真であるための双条件である;
T:「p」が真である↔p(は実際に真)
(左が発話などの表現が真である、右が実際にpが真)

例えば
「雪は白い」は真→(実際に)雪は白い
「雪は白い」は真←(実際に)雪は白い
したがって、
「雪は白い」は真↔(実際に)雪は白い はT-schema

嘘つき文を$${L}$$とする.
$${L}$$:「この文($${L}$$)は偽である」は真である↔この文は実際に偽である

・$${L}$$は真→この文($${L}$$)は(実際に)偽($${T\to F}$$(Tは真、Fは偽,\toは「ならば」という論理演算子))
・$${L}$$は真←$${L}$$は(実際に)偽($${F\to T}$$)(これは$${L}$$は偽→$${L}$$は真 に等しい)

$${T\to F}$$は矛盾である($${T\to F(\bot)}$$($${\bot は矛盾という意味)}$$)
$${F\to T}$$)は矛盾である.($${F\to T(\bot)}$$) 

したがって、Lはパラドックスである.


自己言及の否定は解決策ではない

自己言及している文が自己言及のパラドックスに陥るなら、自己言及文を禁じてしまえばいい(そのような文は単に無意味とでも考える)、というのは安直な発想だ。

自己言及文=パラドックスではない

「この文はnoteに書かれている」

実際に本稿はnoteに書かれている

は明らかに真である。しかし上の文は自己言及文である。しかも、どう考えても無意味な文ではない。

たとえば教科書をみて「この本は教科書である」、実際に万引きをしていない状況で「万引きなんてしてないです。(いまの発言は)本当です」はそれぞれ自己言及文(/発言)である

したがって、自己言及文はパラドックスの十分条件ではない。

自己言及文でない嘘つきのパラドックス


ハガキのパラドックス

A面には「B面は嘘」とだけ書かれており、B面には「A面は本当」とだけ書かれた一枚のはがきがある。

「B面は嘘」は真である→B面は実際に嘘=偽($${T\to F(\bot)}$$)
「B面は嘘」は真である←B面は実際に嘘=偽($${F\to T(\bot)}$$)
よって「B面は嘘」は真である↔B面は実際に嘘   はパラドックス


ベリーのパラドックス

18字以下では表現できない最小の数

上の文は17字でできている

も自己言及を含まないパラドックスである。

したがって、自己言及文はパラドックスの必要条件でもないことが確かめられた。


3値論理

いままでの話は真理値が真か偽という2値しかない論理、2値論理での話だ。たとえば真、偽以外にパラドクシカルという真理値を追加すればいいのではないか。

「この文は偽だ」のように真と仮定しても偽と仮定しても矛盾が出る文の真理値をパラドクシカルということにする。

ハガキのパラドックスも同様に真と仮定しても偽と仮定しても矛盾が出るのでパラドクシカルだ。

しかし次のような文はどうすれば良いか;

この文は偽またはパラドクシカルである

強化された嘘つき文(SL)

上の文を真/偽と仮定した場合は「この文は偽である」と同様である。したがってこの文の真理値はパラドクシカルであるはずだ。

しかし、この文がパラドクシカルだとすると「この文は偽またはパラドクシカルである」は本当のこと=真であることになってしまう

3値論理にしても上の文のようにパラドックスが発生してしまう。

多値論理

では3値論理より真理値をどんどん増やせばどうなるか?

「この文は偽またはパラドクシカルである」はパラドクシカル$${'}$$である。(4値論理)

すぐに反論として「この文は偽またはパラドクシカルまたはパラドクシカル$${'}$$である」とすれば直ちにパラドックスに陥る。では5値論理をとって上の文はパラドクシカル$${’’}$$である、しかしこれも同様にすぐに反駁できる、6値,7値,…

したがって、一般に真理値をどれだけ多く増やしても(n値論理でも)パラドックスに陥いることがわかる。


タルスキによる解決案

嘘つきのパラドックスは一般にタルスキ$${\bold{^{*3}}}$$によって解決されたパラドックスである。

意味論的に閉じた言語

意味論的に閉じた言語とは次の二つを含む言語だ

  1. その言語の表現そのものに言及する方法をもつ

  2. 「真」「偽」という述語をもつ

つまり、自己言及文が存在し、「~は真である/本当である」や「~は偽である/嘘である」といった述語をもつ言語は意味論的に閉じているという。

意味論的に閉じている言語はパラドックスを避けられない。

言語の階層化

対象言語$${O}$$:雪は白い,2+2=5

メタ言語$${M}$$ :「雪は白い」は$${O}$$で真、「2+2=5」は$${O}$$で偽
$${M}$$は
・$${O}$$の言語での表現に指示する方法をもつ
・「$${O}$$で真($${true-in-O}$$)」,「$${O}$$で偽($${true-in-O}$$)」という述語をもつ

メタメタ言語$${M'}$$:「『2+2=5』は$${O}$$で偽」は$${M}$$で真
$${M'}$$は
・Mの言語での表現に指示する方法をもつ
・「$${M}$$で真($${true-in-M}$$)」,「$${M}$$で偽($${true-in-M}$$)」という述語をもつ

$${\vdots}$$
(以下メタメタメタ言語、メタメタメタメタ言語と続く)

このように言語に階層をつけることでパラドックスを避けることができる。

$${L}$$:「この文は$${O}$$で偽である」は単に$${\bold{M}}$$で偽
($${L}$$:「この文は$${O}$$で偽である」は$${M}$$の言語である。したがって、T-schemaより、
「この文は$${O}$$で偽」は$${M}$$で真→この文は$${O}$$で(は$${O}$$で)  となり矛盾する、
$${L}$$:「この文は$${O}$$で偽」は$${M}$$で偽→この文は$${O}$$で偽(は$${O}$$で偽)  となり矛盾しない

したがって$${L}$$は$${M}$$で単に偽)

「『この文は$${\bold{O}}$$で偽である』は$${\bold{M}}$$で偽である」は$${\bold{M'}}$$で真

実はT-schema は対象言語$${O}$$からメタ言語$${M}$$への翻訳である。
「雪は白い」は$${O}$$で真である↔雪は白い

(「雪は白い」は対象言語$${O}$$、「『雪は白い』は$${O}$$で真」はメタ言語$${M}$$である
したがってT-schemaは $${O}$$「雪は白い」から $${M}$$雪は白い への翻訳と言える)

嘘つき文$${L}$$のT-schemaは$${M}$$から$${M’}$$への翻訳である

タルスキへの批判

このような言語の階層化は嘘つき文のようなパラドックスを排除する以外の意味持たないので恣意的な設定であるという批判がある(このような解決をad hocアド・ホック(その場しのぎ)な解決という)。

たとえば「この文は偽である」は一見して$${O}$$の文か$${M}$$の文か区別はつかない。私たちの普段の日常会話でこのような区別をしながら喋っているとは思えないのは確かだ。

この問題への応答はここでは詳しく扱わないがクリプキのものなどが代表的だろう。



脚注

*1;なぜこれが矛盾となるのか?真理値を書けばわかる。
命題P:LはTである (真理値は1)
PはFである:¬ P (真理値は0)
下の真理値表よりこれは恒偽式すなわち矛盾である。
P  →  ¬ P
────
1  |0  | 0

また命題Q:Lは偽(=F)である(真理値は0)
QはFである:¬ Q(真理値は1)

¬ Q  →  Q
─────
1    | 0  |0

*2;強化された嘘つき文$${SL}$$も次のように形式化できる
$${SL}$$:「この文は偽かパラドクシカルである」
$${SL}$$は真→この文は実際に偽かパラドクシカル
$${SL}$$は偽→この文は真($${SL}$$は偽またはパラドクシカルであると言っているので$${SL}$$が実際に偽なら真)
$${SL}$$はパラドクシカル→この文は真(上と同様)

($${                                                 T\to F\lor{パラドクシカル}\\                                                 F\to T\\パラドクシカル\to T}$$
($${\lor}$$は「または」という意味の論理演算子)

*3;数学者アルフレト・タルスキ、あのバナッハ=タルスキのパラドックスのタルスキである。


参考文献

三浦俊彦,『ラッセルのパラドックス』,岩波新書(2005)

八木沢敬,『意味・真理・存在 分析哲学入門 中級編』,講談社選書メチエ(2013)

内井惣七,『うそとパラドックス』,講談社現代新書(1987)


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