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ワールドカップ・サッカー

  若者たちや大人たちは、歓喜の大声をあげ泣き叫んでいる。感動、歓喜、勇気と誰もが同じ言葉を連呼している。
 サッカー好きの少年たちは、次の試合はビルドアップしてハイポジションを取れば勝因はある、と大人顔負けの冷静な分析を行っている。それぞれの選手たちの役割を評価することも忘れてはいない。豪快なシュートも魅力的で目がそちらに向きがちだが、そのシュートを生み出した経緯についても冷静に試合を見ている。
 私たちが子ども頃は、ほとんどは生まれもった素養でスポーツをしていた。記憶では、ルールも技術も戦略も教えられたりしたことは皆無であり、子ども同士でああだ、こうだといって日が暮れるまで野原などで我を忘れて楽しく遊んでいた。いつしか周囲には根性論や精神論が横行し息苦しく飽き飽きして、高校では部活動は行わず、もっぱらいろんなスポーツに顔を出しては楽しんでいた。今でも結構スポーツを見るのは好きで、大勢で一緒に見るというよりは、ひとりで観戦することが多い。
 でも、どうして私たちはスポーツにこんなに夢中になるのだろう。相手のゴールにボールを放り込むことで得点になる、という何も疑問さへ感じないまま、大声をあげて応援している。相手からの分捕り合戦をしているのであれば、多少は納得いくのだが相手に苦労してボールを贈るのである。ルールだって奇妙でわざと手を使わない不自由さをルールにして競いあっているのである。時々ルールも変更され、昔キーパーはボールをもって五歩以上歩いてはいけない、とかオフサイドというルールはなかったような気がする(たぶん)。思えば近年話題になったラクビーだって、前の人にボールを渡すのは禁止で、自分より後の人にだけにボールを渡すことができるとか、わざわざどちらに転ぶかわからない楕円形のボールで競い合うのである。そしてサッカーもラクビーも試合が終了すると「ノーサイド」となり敵味方の区別が解消される。とても不思議ことでおそらく人類の太古からの生存の歴史が表象されているような気がしてならない。サッカーもラクビーも聞いたところでは、イギリス発祥というのもなかなか興味深く考えさせられる。
 
 ちょっと横道にそれますが、サッカーを観戦していてどうも現代の世界の縮図を垣間見ている気がしてなりません。幼児化した大人と、成熟していく子どもたち、世界は全体主義的で前世紀的な世界から変わろうとしている予兆を感じます。子どもたちは無邪気で残酷なところもありますが、背筋を伸ばし世界と対峙している、その姿は、孤高の哲学者に見えなくもありません。
 
 

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