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サグラダ・ファミリア マリアの塔

 コロナ禍で巣ごもりしていて知らなかったが、ガウディのサクラダ・ファミリアのマリアの塔が完成したという。以前もどこかに書いた記憶があるが、忘れてしまったので再度お書きすることにした。
 建築家らしくない物言いになるが(ガウディの建築的な関心がないわけではないが)常に「祈り」という言葉が先にやってくる。外尾悦郎さんの言葉にあるように「大切なことは完成させることではなく、こんな困難な時代でも、変わらず作り続けること」である。言い換えれば「祈り続けること」かもしれない。
 「反合理の系譜 ガウディ」若い時の雑誌かなんかにあったタイトルであり、それを模したタイトルのノートを開くと内田樹さんの引用があったのでNHK BSの記事とともに掲載することにした。
 
サグラダ・ファミリア~輝く星の塔 マリアの祈り~
 スペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリア教会。去年12月、世界中が見守る中で新しい塔が完成した。高さ138メートル・頂上に星を冠した「マリアの塔」だ。コロナ禍で一時は工事を中断しながらも諦めず建設を続けた背景には「困難な時こそ人々のために」というガウディの時代から受け継がれてきた精神があった。人々の大きな希望となったマリアの塔。そこに込められた「平和への願い」を案内人・薬師丸ひろ子さんと紐解く。
 
──ガウディが残したわずかな資料を手がかりに、40年以上サグラダ・ファミリアの彫刻を手がける外尾悦郎さんとも再会されましたね。
 
 「前回バルセロナでお会いしたとき、ガウディの思いや技術、すべてを身にまとっていらっしゃる方だなと感じました。今回再びお会いして、とても大きなものに包まれるような温かい気持ちになり、『みんな困難な時代を生きているけれど、大丈夫ですよ、何も怖いことなんてありません、明日に向かってみんなで歩いていきましょう』と語りかけてくださっているようでしたね。
 外尾さんは、よく『サグラダ・ファミリアはいつ完成するんですか』と質問されるそうです。ですが、大切なことは『完成させること』ではなく、『こんな困難な時代でも、変わらず作り続けること』だと外尾さんはおっしゃっていて、それが私はとても印象に残っているんです。もちろん、今回のように新たな塔が完成することもとてもすばらしいことだと思いますが、外尾さんがおっしゃるとおり、『未来に向かって歩き続けることの大切さ』をガウディは伝えたいのではないかと感じるんです」(NHK BSより)
 
「シジポスの神話」
 山頂に岩を押し上げるシジフォスは人間的尺度を超えた「目的」というものを信じない人間の比喩である。かりに、その旅程がどこに至りつかないものであっても、いま岩を押し上げている腕のきしみとじりじりと押し上がる岩の動きは「間違いない、てごたえのあるリアリティ」であり、カミュは自分はそれしか信じない、と言っているのである。「主なきこの世界、それはシジフォスにとって不毛なものでも無価値なものでもない。この岩の砂礫の一粒一粒が、暗闇の中で岩と岩がきしみあって放つ金属の火花のひとつひとつが、それだけでひとつの世界をかたちづくっているのだ。山頂へ向かう戦いそれ自体が人間の心を豊かに満たしている。幸福なシジフォスの姿を思い浮かべなければならない。」シジフォスは徒労感ともっとも無縁な存在である。シジフォスは現実とがっぷりと取り組み、いまここにある現実以外のほかの場所に「言い訳」を探さない。その努力がどのような価値を地上にもたらしきたすのか、シジフォスは知らない。人間の壮絶な努力に対して、いかなる報償も約束されていないこと、その没論理性をカミュは「不条理」と名づけたのである。 
 
愛の現象学
 この決断の責任をアブラハムに代わって引き受ける人が誰もいないからである。主さえもアブラハムの行為の責任を引き受けることはできない。なぜなら、主の告げた「謎」の言葉を解釈し、決断したのはアブラハム自身なのだから。それは人間アブラハムの決断である。
 
 唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある。
 
 この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が主体性を基礎づける。このとき、主という「他者」との対面を通じて、アブラハムは「誰によっても代替不能な有責性を引き引き受けるもの」として立ち上がる。このようにして自立したものをレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけることになる。
 
 秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちで顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。
 
 不在の神になお信を置きうる人間を成熟した人間と呼ぶ、それはおのれの弱さを計量できるもののことである。
 
レヴィナス
 「大人」とは信じることがなくなったとき、「信じることがなくなった状況」を「信じる」契機に繰り上げることができるもののことである。
 
「困難な自由」
 人間が人間に対して犯した罪は神といえどもこれを取り消すことはできない。
 
内田樹による内田樹
「神に対して犯された過ちは神の赦しに属する。だが、人間が人間を傷つけたとき、それを赦すのは神の仕事ではない。」
 
サグラダ・ファミリアと拡大家族
 サグラダ・ファミリアは日本では聖家族教会とよばれるそうで、聖家族(教会)と拡大家族が理由ははっきりしないが、いつからかつながり同時に思い起こすようになった。そんなに的外れではないような気もしている。
 
村上龍「希望の国」とカート・ヴェネガット「スラップスティック」と「拡大家族」
 夕方仕事を終えて、頭の「クールダウン」にカート・ヴォネガットの『スラップスティック』を読む。「拡大家族」という言葉をよく聞くけれど、どういうことなのかこの本を読むまで知らなかった。
 「拡大家族」、いいなあ。
 そう言えば、村上龍の新作も一種の「拡大家族」の話である。21世紀の共同体はあるいは一種の「拡大家族」を造りだして行くことになるのかもしれない。
 その『スラップスティック』にすごく気に入った言葉があった。
「わたしは愛をいくらか経験した。すくなくとも、経験したと思っている。もっとも、わたしがいちばん好きな愛は、『ありふれた親切』ということで、あっさり説明できそうだ。短い期間でも、非常に長い期間でもいい、わたしがだれかを大切に扱い、そして相手もわたしのことを大切に扱ってくれた、というようなこと。愛は必ずしもこれと関わりと持つとは限らない。」
私はカート・ヴォネガット・ジュニアに100%賛成である。
 「ひとを大切に扱う」ということは簡単のようだけれど、とても、とてもむずかしい。
 「ひとに親切にする」ことは「ひとを愛する」ことより簡単そうだけれど、たぶん、それよりむずかしい。
 「ひとを愛する」ためにはあまり必要ではないけれど、「ひとに親切にする」ためには想像力と知性が必要だからだ。
 そして、おそらくいまの日本社会にもっとも欠如しているのは、想像力と知性だ。
 

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