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これは、アレだな

 朝食をしながら、テレビをつけたら「ベイビー・ブローカー」の是枝監督のインタビューが流れていた。テレビの声だけを聴ながら食事をしていたが、「養護施設に赤ちゃんのときに預けられて、両親の顔を知らずに育って、そのまま大人になった子たち」というお話に一瞬立ち止まってしまった。それと同時に内田樹さんの「裁判員制度は大丈夫?」と「夫婦別姓」を脈略はないが思い出していた。
 数日たち毎日新聞に伊藤亜紗さんの「亜鉛の少年たち」についての書評が載っていた。読みながら今度は、先日の「ベイビー・ブローカー」を思い出していた。
 そんな出来事があり、また数日がたち経緯は忘れてしまったが、小川洋子さんの「物語の役割」を読んでいたら先日からの出来事が思い出され何か数珠つなぎにように繋がっていくような気がして、「これは、アレだな」(高橋源一郎)かもしれないと思えてきた。
 
映画監督 是枝裕和 最新作「ベイビー・ブローカー」で描く”家族と命“ NHK NEWS おはよう日本
記者:映画を作る上で韓国で取材をしたと伺いましたが、一番強く感じたことは何ですか?
 
直接声を聞けたのは「ベイビーボックス」ではなくて、養護施設に赤ちゃんのときに預けられて、両親の顔を知らずに育って、そのまま大人になった子たちです。彼らの声の中で一番印象的だったのは「自分が生まれてきたことは本当によかったのかどうか」ということの確信を持たないまま大人になってしまう、「本当に自分が生まれてきてよかったのか」、「自分が生まれたことで母親は不幸になってないか」という、そのことを心配しながら、日々生活を送っているという、そのことが一番大きかったです。
 
伊藤亜紗・評 『亜鉛の少年たち』=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里・訳 毎日新聞
人でないものに変容する地獄
 「国際友好のため」と聞かされて現地に送り込まれた少年たちが目にしたのは、さっきまで一緒にいた仲間が一瞬にして肉屋で売っているミンチ肉と同じものになってしまうような世界である。そこには、自軍の武器や消毒液を現地人に売って現金を得ないと生活必需品を得られないような困窮と矛盾が、陰鬱で激しい軍内部でのリンチが、民間人も子供もかまわず殺害し、死者のポケットからも破壊した家からも取れるものを取っていく略奪のかぎりがあった。人間でないものに変容しないと生きていくことができない地獄。タイトルの「亜鉛」とは、戦死者を移送するための蓋(ふた)の開かない亜鉛の棺(ひつぎ)と、同じように閉ざされた人々の心を指す。
 
 これは二つの意味においてだろう。一つは、戦地での経験があまりにも非人間的で恐ろしいものだったから。もう一つは、国家が描きだすプロパガンダを否定することになるから。これらの点は、兵役を終えて故郷に戻ったあとも人々を苦しめることになる。人殺しの極度の興奮を知った者が日常生活に戻るのは難しく、加えて間違った戦争に加担した自分を否定して生きていくことになるからだ。家族や友人との溝は深まるばかり。「誰もこんな話聞きたがらない」。時折挿入される人々の仕草は不穏で、真実を聞きだそうとする著者に対する苛立(いらだ)ちが見え隠れする。
 
裁判員制度は大丈夫? 内田研究室ブログ
 四回生のゼミは裁判員制度。
 あと1年ほどで制度が導入される。
 ゼミでこの件について論じるのはもう4回目である。
 毎回学生さんたちはなんとなく片付かない顔になる。
 そもそも、この制度を「導入しよう」と言い出したのは誰なのか。
 それがわからないのである。
 「導入しよう」と言い出した以上は、その人たちにとっては、制度の導入によって何らかの利益が見込めると思ったはずである。
 何の利益か。
 それがわからない。
 法務省にとって、この制度の導入はどんな利益があるのか。
 最高裁のHPにはこう書いてある。
 「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。」
 なんということもない文言であるが、こういうことを最高裁が言い出すということは言い換えれば、「裁判が身近ではなく、わかりにくく、司法に対する国民のみなさんの信頼が低下している」ということが前段になければならない。
 論理的にはそうである。
 現に裁判が身近でわかりやすく、国民の司法への信頼が篤ければ、司法制度をいじる必要はないからである。
 だから、前件としては「司法制度はうまく機能していない」ということになる。
 でも、そういうことをふつう司法制度の当事者が言いますか?
 言わないでしょ。
 ぜったい。
 メディアがいうなら、わかる。
 政治家が言うのなら、わかる。
 日弁連が言うのでも、わかる。
 でも、誰も文句を言わないのに、裁判官が自分から「裁判制度は早急になんとかせないかんです」と言い出すということはありえない。
 百歩譲ってあったとしても、その場合裁判を「身近でわかりやすいもの」にし、司法への信頼を回復する方法はいくらでもある。
 司法制度への国民的理解を深めたいとほんとうに思うなら、いちばん簡単なのは「法律学」を中学の社会科の必修にすることである。
 いまだって「公民」という科目があるのだ。その半分くらいを法律学と法社会学と法制史と司法制度の解説に割けば、国民の司法への理解は飛躍的に高まるであろう。
 学習指導要領を書き換えるだけなんだから。
 そういう「簡単な方法」が他にもあるにもかかわらず、裁判官たちが自分の職域に「素人」を招き入れて、彼らに裁判権を分割することで司法制度が改善されるというアイディアを提唱するということは考えられない。
 例えば、教育制度はうまくいっていない。
 いうときに、生徒たちを教壇に呼び寄せて、いっしょに授業をやってもらうという代案を思いつく教師はいない。
医療制度もうまくいっていない。
 そういうときに、患者たちを診察室へ呼び入れて、いっしょに医療行為をしてもらうという代案を思いつく医者はいない。
 当たり前だが、それらの仕事は専門的知見と経験を必要とするからである。
 シロートに着流しで現場を歩き回られては困る。
 裁判官だけが違う考え方をしたということを私は信じない。
 日本中の裁判官はこの司法制度の改革に反対しているはずである。
 意見を公開する機会が提供されていないので、黙っているが、内心ずいぶん怒っているはずである。
 と思う。
 だから、この制度改革が裁判所主導で進められたということは考えにくい。
 では、誰が主導したのか?
 裁判の厳罰化を求める勢力がこの制度改革を支持したという可能性はある。
 裁判員制度の導入で間違いなく「メディアの論調」は司法判断に反映するようになる。
 ただ、かかわるのは刑事事件だけであるから、国が被告であるところの公害訴訟とか、そういうところには市民感情は反映しない。
 するのは殺人事件などの凶悪事件だけである。
 凶悪事件については、あきらかに司法と市民感情のあいだには齟齬がある。市民感情は刑法条文や判例とかかわりなく「厳罰」を望む傾向があるからである。
 裁判員制度の導入は「厳罰化」による秩序と倫理の回復を求める政治家や 知識人が支持したのかも知れない。
 しかし、殺人事件の審理に参加した市民裁判員は、テレビに向かっているときには「そんなやつは死刑にしちゃえばいいんだよ」と気楽にコメントしていたとしても、自己責任で死刑に一票を投じることには少なからぬ心理的抵抗を感じるはずである。
 裁判官なら職業的覚悟にもとづいて死刑判決を下せるだろうが、一般市民はそのような心理的訓練を受けていない。
 裁判官だけで下した判決であれば死刑になっていた判決が、裁判員を入れたために懲役刑に減刑されるケースが出てくる可能性は高いと私は思う。
もし「厳罰化」を求めて裁判員制度を導入したのだとしたら、そのもくろみははずれるだろうと私は思う。
 有期刑の量刑はどうなるかわからないが、死刑判決は激減するはずである。
 それより、私がいちばん懸念しているのは、裁判員になった市民たちがこうむるトラウマの影響が過小評価されていることである。
 殺人事件について、私たちがメディア経由で知らされるのは、その全貌のほんの一部にすぎない。
 けれど、裁判員は調書を閲覧するときに、そのありのままを見せられる。
それは「人間がどれほど邪悪で残忍で非理性的になりうるか」ということをまぢかに知ることである。
 人間性の暗部に触れることはしばしば人の心に回復不能の傷を残す。
 というか、それに触れてしまった人にしばしば生涯にわたって回復不能の精 神外傷を負わせるものを私たちは「人間性の暗部」と呼んでいるのである。
 そのようなものに心理的成熟にばらつきのある市民たちが組織的にさらされることについてはどう考えているのだろう。
事件の内容だけでなく、評議の過程で、裁判官や他の裁判員たちの態度にショックを受けるということも考えられるが、裁判員たちはこれらのことについては生涯にわたる守秘義務を課されている。
 職務上知り得た秘密を漏洩した場合には6ヶ月以下の懲役または50万円以下の罰金に処される。
 裁判員に選任されたことによって重篤なPTSDに罹患する市民が出た場合、彼らは「職業知り得た秘密」を医師やカウンセラーには話してもよいのか、それさえも禁じられているのか、そのあたりのことは事前に明らかにしておいた方がいいような気がするけど。
 
「バカな男のとほほな夢」Simple man simple dream 内田樹
Simple man simple dream -13
新しい家族
 夫婦別姓を実践している夫婦がいる。戸籍上は同姓なのだが、表札には両者それぞれの姓を掲げ、電話も別々に所有し、相手にかかってきた電話には出ない。子供たちに父親、母親それぞれに姓をばらばらにつけている夫婦がある。男児は母の姓、女児は父の姓を名乗っている。同姓になるのがいやなので、婚姻届を出さない「事実婚」を実践している夫婦がいる。出生届の書式が気に食わないので、生まれた子供は戸籍がない。就学や予防接種には問題はないのだが「パスポートがとれないのが困る」と親は述べている。
 
 こういうことをするのがいまの「はやり」であるらしい。ジャーナリズムはおずおずと賛意を表明して、自分たちが「開明的」であることを示そうとしているしかし、
 
 しかし、このような「夫婦」、このような「親たち」の思考方法はどこかに倒錯があるように私には思えてならない。
 
 精神の自立を侵犯されたくない、自分の名前で仕事がしたい、自分の領域を家の中で確保したい、家事の負担を不当におしつけられたくない、相手にかかってきた電話にさえ出たくないというような男女がなぜ「結婚」しなくてはならないのか、私にはそれが理解できない。
 
 一人で暮らせばいいではないか。
 
 一人暮らしは生活費が多少高くつく、病気のときや老後を思うと不安だし、話し相手がいなくて寂しいこともある。けれども、誰にも従属せずに生きるという状態は、そのようなマイナスの「対価」を支払ってしか手にいれることができない。
 
 従属はしたくないが、孤独ではいたくない、というのは「腹いっぱいご飯を食べたいが、やせたい」というのと同類の不可能な願望である。
 
 「自由に暮らすこと」と「家族と暮らすこと」は両立しない。自由に暮らしたいものは一人で暮らすべきだし、家族と暮らすことを選んだものは、しばしば自由を断念しなければならない。そんなのは常識である。
 
 子供たちに両親の姓を別々につけている夫婦の行動もまた私には理解し難い。
 
 この親たちは自分たちの姓については、それを「自分たちのこれまでの人生と活動を表す貴重なしるし」として手放すことを拒否した人たちである。その同じ人たちが自分の子供の姓については「ただの符号なんだからどっちでもいいじゃないか」というのがよく分からない。ただの記号にすぎない姓に内容を与えるのは「子供たちのこれからの生き方だから」というのであろうか。だったら、どうして親たちは自分たちの結婚のときには「姓なんかただの符号なんだから、一方の姓にこれからの夫婦の生き方で新しい内容を与えて行こう」というふうには考えなかったのであろう?
 
 「私たちはユニットではない」ということをあくまで主張したいのであれば夫婦別姓もよいだろう。大人のやることだ、責任は自分でとればよい。しかし、同じ理屈で、「子供と親はユニットではない」ということも正しく主張されねばならないだろう。子供は妻が夫の「所有物」でないのと同じように、両親のいずれの「所有物」でもない。その子供にいずれのものであれ親の姓を名乗らせてるのは論理が通らないのではないか。
 
 自分たちの都合に合わせて、ある時は「姓は大切だ」といい、ある時は「姓なんかどっちでもいい」という。あるときは「他人の姓を名乗るのはアイデンティティの喪失だ」といい、あるときは「他人の姓を名乗ることがアイデンティティの始まりだ」という。私にはよく分からない。単に私の頭が悪いだけなのかもしれない。
 
 出生届の書式が気に入らないからと言って自分の子供の出生届を出さず、戸籍のない状態で育てている親たちの思考も私には理解できない。
 
 どこの社会にも、生まれた子供を集団のメンバーとして認知するための儀礼が存在する。聖水で洗礼するところもあるし、一族の長老に命名してもらうところもある。生まれた子供を集団全体で確認し、効果的に保護し、育成するためにはそういう集合的な儀礼がなくてはすまされない。その儀礼を意識的に拒絶するということは、同時に集団の認知と保護をも拒絶することである。
 
 さいわい日本では戸籍のない子供でも義務教育は受けられるし、基本的な児童保護措置は受けられるようになっているらしい。しかしそれは戸籍のない子供を保護するためであって、子供に戸籍を拒絶した親の意志を尊重するためではない。
 
 現行の戸籍制度が最良のものではないということに私は同意する。けれども現行制度の不備を訴えるために、自分の子供に「戸籍なし」というハンディを負わせて、その苦しみを「取引のカード」に使うというやり方には同意できない。自分のイデオロギーを実現するために、他人(子供は「他人」である!)を犠牲に供することをためらわないような人間を「新しい家族像」の範例とすることに、私は反対である。
 
 ここに取りあげたような「わがままな夫婦たち、親たち」の全員に共通しているのは、家族についての彼らの「先進的見解」なるものが、いずれも家族のうちの他のメンバーを犠牲にすることによってはじめて成り立っているという点である。
 
 同じ家の中に暮らしながら姓が異なる兄弟姉妹や、戸籍を持たない子供、彼らは、自分で選んだわけではない条件ゆえに社会生活を営む上でいくたの困難に遭遇している。家族の中で自己決定権をもっていない「最も弱い」メンバーがこうむる苦痛という「対価」を支払ってはじめて、家族の別の「強い」メンバーがどこかで「面目をほどこしている」のである。
 
 もちろんそのようなことを子供に強いている親たちは「姓のちがう兄弟姉妹が特別視される社会の方が間違っている」とか「戸籍のない子供が不便を感じる制度の方が間違っている」と言って反論するだろう。その指摘には一定の論理的整合性があることを私は認めるてもよい。しかし、そこに家族のメンバーに対する敬意と愛情を認めることはできない。
 
 家族についての「先進的な」立場と称するものの過半は、「家長」の対外的な面子のために「弱い身内」が犠牲にされるという点において、伝統的家族主義に酷似している。それゆえ私はこのような立場には一片の「先進性」も認めないのである。
 
物語の役割 小川洋子
ホロコースト文学の中の物語
 その三人が吊るされた瞬問、エリ・ヴィーゼルの後ろで、誰か大人が「神さまはどこだ、どこにおられるのだ」とつぶやくのです。その時エリ・ヴィは、心の中に響く「ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておられる」という自分の心の声を聞くわけです。若い少年は体重が軽いため、息絶えるまでに他の大人よも時間がかかり、より苦しみが続きました。たまらずに「神さまはどこにおられるのだ」と誰かが呟いたとき、エリ・ヴィーゼルは、その処刑されながら苦しんでいる自分と同じような少年の中に神を見たのです。
 
 アウシュヴイッツの最初の夜に自分の神と魂が、殺害されたんだと感じ、そして自分と同じ少年の中に神を見た、ということがエリ・ヴィーゼルにとっての物語なのではないでしょうか。とうてい現実をそのまま受け入れることはできない。そのしき現実を、どうにかして受け入れられる形に転換していく。その働きが、私は物語であるし思うのです。
 
 自分は生き残って幸運だったと単純に喜べず、むしろ、どうして自分は生き残ったんだろう、という疑問に突き当たる。あの人もこの人も皆殺されたのに、自分が生きているのは何故なんだ、と答えの出ない問いを自らに投げ掛け続ける。こうした心の動きは、人間の良心とつながっているように見えます。クリューガーやフランクルの抱える苦悩は、むやみに自分を苦しめるためだけのものではありません。ここにこうして存在しているのは、決して当たり前のことではない。自分とは、さまざまな犠牲の上に成り立つ、ほとんど奇跡と呼んでいい存在なのだ、という良心に基づいた物語を獲得するための苦悩なのではないでしょうか。
 
作家は小説の後ろを追いかけている
 「お互いほんとうに現実を生きていくのはいろいろたいへんな、困難なことだけれとも、とにかく僕はここにいるからね」「私もここにいるからね」と言って、声なき声で目配せを交わせるような小説を書きたい。
 
 

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