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建築家なしの建築

 15年目くらい前に、昨年竣工した店舗付の住宅を訪れお店でご夫婦とお話をしていたら、なんとなくお店が落ち着き、いい感じになってきているのに気がついた。
 「一年くらい経つのだが、使えば使うほど、良いところがわかるようになってきた」とご主人のお言葉に、ちょっと感激し自分では意識化できない発見を家族がしているのだろうと思った。たぶん住宅とはそのようなものであり、テキストの誤解や曲解、錯誤などのように、そこに住まわれる家族や訪れるお客さんによってつくりかえられ、新たなそれぞれの物語が生まれる。それがテキストの永続的な存在理由のような気がした。
 もうひとつ頭をよぎったのは、竣工時の真新しさから家族や訪れる人々の体臭や息遣い、発汗、手触りなどや周囲の風や雨、雪、湿度、温度、太陽の光、夜の星、雲、樹木、往来の人々によって建築が変化していっていることであった。建築にもし個性とか固有性があるとすればそれは、その場所やその場所の人々が関わりつくりだされる唯一性ではないだろうか。
 ようやく「建築家なしの建築」の意味を知りえたように思えた。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、「建築家なしの建築」は、あくまで西欧的な概念であり日本では当たり前のことである。多くの時間をかけ、その主題を繰り返し、繰り返し思考してきたのか、ようやく手掛けた住宅から学んだ。回答はいつも私のそばに同行していたのである。
 
パッチワークの外壁
 だいぶ前になるが、ある住宅の木製の外壁が一部腐りかけたということで、その箇所を剥がしてみたら当初、施工者が予想していたように、その材料の裏側は当時に近い健全な状態で生き続けており、そのまま裏返してもとの場所に張りつけることにした。数年は、パッチワークのように張り替えた箇所が目立ち気になっていたのだが、そのうちすべてが馴染むように同化し、何事もなかったかのように現在は、ある。
 たぶん、現在の工業製品では、このようなことは起こらないだろうと思われる。なぜって工業製品は健康で若さを永遠に保つことを理想とする材料で有限で齢をとり皺だらけの「美しさ」や「愛おしさ」もあることを、すでに私たちは忘れかけている。「共和的な貧しさ」関川夏央を懐かしむ心性はノスタルジーなどとは違った意味で豊かさにつながっているものであり、建築家や人間の小ざかしい知識などを素知らぬ顔をして向こう側では、その「場所」と「建築」がまさしく共に生きている。建築家のなすべきことは、その共に生きていることにバリアーをかけない節度をもつように気遣いをすることである。
 
人が住まなくなると、家は急に傷みだす
 過疎化、高齢化の進行している地域では、檀家氏子が減って寺社の維持がむずかしくなっていると聞きました。せっかくの宗教的な拠点がそうやって消滅してゆくことは、とてももったいない気がします。どうすればこれからの時代に、神社仏閣が生き残ることができるか。これは知恵を絞るに値する問題だと思います。
 家というのは、人が住まなくなるしすぐに荒れてします。これは経験的に確かです。人が住んでいるほうが家の傷みは早いということはないのです。 逆なんです。人が住まなくなると家は急に傷みだす。壁が崩れ、屋根瓦が落ち、柱が歪む。不思議です。たぷん家というのもそこに住んでいる人間から何らかの「生命力」のようなものを受け取って、それで生きているのではないかと思います。(内田樹)
 
 
 
 

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