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AI

AIと生物
 先日テレビで色とりどり鮮やかな魚が海の中を泳ぎ。昆虫も同様で見とれてしまった。人間の想像を超えたものばかりである。
 昔は、進化論で説明されていたが、どうもそのようではないようで、適者生存とは言えない。まさしくそんな魚や昆虫を多様性というのだったら、納得いきそうだ。
 AIは、どんな生物を描き出せるのであろうか。最適解で描いても魚や昆虫は描けないような気がする。
 
生物と無生物のあいだ 福岡伸一
「機械には時間がない。生物には時間がある。」
 
孤独の発明 三浦雅士
 インターネットだろうが人工知能だろうが、孤独を発明したりはしない。それは、感動したりはしないということと同じだ。
 
サイエンス・フィクション、または隠れたる神
 西洋の神学や形而上学に起因している。絶対者と自己との関係は、そのまま自己と自己との関係であり、そしてこの関係を可視的にしようとしたときに、人間はおそらく人造人間のテーマに遭遇したのである。
 
 ヒューマニズムとはじつはきわめて神学的な言葉ではないのか。
 人間よりも人間らしいロポットという発想そのものがすでにひとつの倒錯であることは明らかである。その背後には、人間という観念が人間そのものから遊離しうるという発想がひそんでいる。人間性という本質が、人間という現象から分離されうるとすれば、人間を形成すると考えられているさまざまな属性もまた人間そのものとはまったく別個に存在しうることになる。
「私という現象」
 
高樹のぶ子・評 『「生きものらしさ」をもとめて』=大沢文夫・著
 私には「飽きる」才能がある。飽き続けて別世界を求め、それはほぼ失敗してしまうのだが、それでも「飽きる」ことを止められない。この点だけは電脳に追い越されることはないだろう。なぜなら電脳は死なないけれど、ゾウリムシも人間も必ず死ぬのだから、死を受容するための「生きることに飽きる」能力が、備わっていないはずがないではないか。
 
アーサー・ビナード
 もちはもち屋、魚は魚屋、魚関連の言葉も魚屋で覚えるのがいい。スーパーで買えるのは魚の死体だけ。秋の日の夕方、魚屋の店先でおかみさんと話をしながら買うから、生き物としてのサンマが見えてくる。
 コンピューターが意味のある言葉を発することができないのは、生活していないからだと思う。コンピューターは猫を抱いたことがないし、豆乳も牛乳も飲まないからね。
 
 

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