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時には、立ち止まる

 日曜の朝、サンデー・モーニングという番組で寺島実郎さんが、ロシアのウクライナ侵略について「ロシアはロシア正教」であり、そのことを抜きにして考えることはできない、と語っていた。新聞、テレビなど多くの人たちは、それぞれ自説を語っているが、宗教を踏まえ語っている人は皆無である。よその国のことは、目聡く言い募ることはできるが、果たして私たちの国に対してはどうだろう。
 手元にある資料から関係ありそうな何点かを取り上げてみた。
 
新・映像の世紀 
「時代は独裁者を求めたー第二次世界大戦―」 NHKテレビ
ナチズムは破壊したもう終わりだ。
その思想は私とともに消滅する。
だが100年後には新たな思想が生まれるだろう。
宗教のように新たなナチズムが誕生するだろう。
 
ヒットラーの最後の言葉だそうである。ナレーションの中で語られていた。
 
三浦雅士・評 『明代とは何か』=岡本隆司・著
中国とは」原点に引き返し問い直す
 20世紀になって共産主義がまがりなりにも定着した国は二つしかない。それはロシアと中国だ。共通点は何か。ともにモンゴルの支配を受けた国であるということだ。と、岡田英弘は述べた。同じ問題を家父長制大家族に結び付けて説明したのがエマニュエル・トッドである。いずれにせよ、共産主義は20世紀のロシアと中国において、支配者の名称をたんに皇帝から書記長に、書記長から大統領に変えたにすぎないと考えるものは少なくない。権威主義的独裁とは東洋的専制の言い換えにすぎない、と。
 
本村凌二・評 『歴史とはなにか』=鈴木董、岡本隆司・著
「自世界中心史観」のくびき自覚
 さらに、世界史に目をむけるとき、「宗教」は不可欠である。たとえば、「儒教とは宗教か?」という問いかけがあるが、それはキリスト教を基準とする要件の有無を問題にするだけであって、ここにも西欧中心の視点がうごめいている。その見方からすれば、アジアに多い祭政一致の状態は未分離で遅れていると言われがちであるが、分離しないのが当たり前の社会があることを理解していないのだ。西欧にもエクレシア(神の御国)と称される政教分離のない世界があったらしい。
 
 『文字と組織の世界史』を記した鈴木は、近代の世界が五つの大きな文字世界で成り立っており、それらの文字で文化世界の拡がりを追えることを強調する。
 
 「神仏習合」にしても、日本人のイノベーション能力と考え合わせると、興味はつきない。
 
日本習合論 毎日新聞記事より
 そもそも日本は雑種文化なのだった両立するはずがないものを受容する。やがて化学反応が起こり、異質なものも共存できるようになる。かけ離れた他者の間に共通項がみつかる。それを繰り返してきた。内田氏はここに、わが国独自の創造力の源をみる。
 
 共感できる同質な人びとと社会をつくろう、も危険である。レヴィナスの《重要なテーゼ…は「他者との関係は…共感の上に基礎づけるべきではない」》だ。人間は互いに理解も共感もしにくい。だから最低限のルールだけ守ろう。多様な人間が自分らしく行動し、結果が調和すればよい。そんなやり方を「習合的」という。
 
国家は宗教の最終形態 吉本隆明
 国家というのは宗教の最後のかたちです。
 未開時代や古代から宗教はあるわけですが、この宗教はかたちをかえます。その変わり方にはふたつある。
 第一は、呪術的な宗教がだんだんかたちを変えて進化します。掟のような法になります。それがさらに国家だけにしか通用しない国宝とか憲法になるのです。そういうふうに変ります。そして最後は今の民族国家になるのです。だから、民族国家は宗教の最後のかたちだといえるわけです。
 もうひとつ、かたちを変えない場合があります。宗教のままです。
 
法律はもともとはるか昔の宗教に由来している 吉本隆明
 前の項でいう法律とは、こまかい決まりごとではなくて、のちに国法とか憲法とかになる、すべての法の骨格のようなものです。
 つまり、法律はもともと、はるか昔の宗教に由来しているわけで、だからこんなにも人の心に対して力を振るうことができるのです。
 紙切れ一枚にすぎない婚姻届を提出することが、意外なほど重たい意味をもってくるのも、それが宗教をもっと固くしたものである法律にもとづく行為であるからなのでしょう。
 宗教から生まれた法律が、さらに煮詰まっていって誕生したものが国家であるとぼくは考えます。
 国家が法律を作ったのではなく、まず宗教があって、それが法律になって、それから国家(近代国家)が生まれたということです。
 

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