見出し画像

アアルト(建築家)とムーア(建築家)

 フィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの作品「セイナッツァロの役場」(庁舎)とアメリカの建築家チャールズ・ムーアの作品「シーランチ」(コンドミニアム)という建築があります。いつだったか、「シーランチ」は「セイナッツァロの役場」の引用であると聞いたことがあります。引用の是非についてではなく、フィンランドとサンフランシスコという場所や環境、庁舎とコンドミニアなどの違いを超えて、引用に駆り立てたてたものは何だったのでしょうか。
 
キリン アート ギャラリー 美の巨人たち 一枚の絵
 厳しい天候に晒されてきた外壁のレッドウッド(杉の板)が履き古したジ   ーンズのように味わいのある風合いを醸し出している。
 
 (土地開発業者)アルフレッド・ポークは、コンクリートとブルドーザーが嫌いな男。既存のものとは全く違う、新しいコミュニティーをこの大地に作ろうと考えた。
 
 ムーアは事務所の仲間たちとともに、極力環境に負担をかけない、新しい時代の建築のあり方を模索していった。
彼らにはある一つのイメージが浮かんでくる。美しい田園に佇む農村の風景。そこには茅葺き屋根の住宅があり、その内部には剥き出しの梁や柱…。まさにそれは日本の民家だった。

 フィンランドとサンフランシスコ、そして日本(の民家)が集合したハイブリットな建築といえます。乱暴な言いかたをすれば建築は模倣や引用であると、いえなくもありません。
 人類史の時間を内包した知恵や経験、技術の上に築かれており、たかだか建築家(近代になってできた職業)のオリジナルなどは妄想であるとしか思えないのです。建築は多くの人々が関与しその営為の集積であり、大げさにいえば、太古からの無名の人々(一個人の指揮系統によるものではなく)の集合知のようなものです。そんな意味で引用もオリジナティーであり、引用する意思そのものがすでにオリジナルであるのではないでしょうか。音楽などのアレンジャーに近いかもしれません。
 
文化の吹き溜まり
 フィンランドはヨーロッパの辺境で、サンフランシスコは西部開拓の終点で行き止まり。日本も辺境で行き止まり。いろんな文化が入り混じっているようです。
 辺境で思い出すのは、日本(能の摺足・相撲の四股)・アルゼンチン(タンゴ)・ポルトガル(フラメンコ)・スペイン(ファド)・アイルランド(ステップ・ダンス)で、みな地団太を踏むように大地と交歓をしているように見えます。
 世界は、浮足立って地に足がついていないようですが、地に足をつけて、という諺は人間だけではなく建築も同様です。
 
先住民サーミとトナカイ
 風力発電(風車)の音でトナカイが近寄らず、食料となる地から遠ざかった。サーミの女性「工業―大規模なソーラーパネルが自然の猛威で全滅―でダメだったのに、工業で別のモノで置き換えるなんて、終わりにしたら」。正確ではないが、そんなことをいっていた。
 ノルウェー語ではかつて「ラップ人」とも呼ばれていたが、現在では古語または蔑称と受け取られる。
 
アイヌを撮り続けている写真家
「純粋なアイヌはいるんですか?」写真家。
「純粋な日本人っているのですか?」アイヌの女性。
 
アメリカインディアンの女性
「自然にやさしい」って人間のエゴ、そんなものは要らない
 
四股 百科事典マイペディアより
 力士が土俵の上で片足を高くあげ,強く地を踏む所作。相撲稽古(けいこ)の重要な一方法だが,他方で地を踏み鎮めるという宗教的意味をもつ。日本各地の祭礼で行う民俗相撲では,力士の四股によって大地の邪悪な霊を踏み鎮め,あるいは踏むことで春先の大地を目ざめさせて豊作を約束させると伝えるものが多い。平安宮中の7月の年中行事である相撲節で,相撲人を天覧の庭に先導した陰陽師が行った反閇(へんばい)に由来するという。
 
極小とする事 森の舞台 隈研吾
 能舞台ではこの時空の矛盾を、床という建築エレメントが解決する。なぜなら壁は空間的エレメントであり、床は空間と時間の双方に所属するエレメントだからである。壁の存在は遠方からも容易に認識され、固定された視点(非時間的視点)からもは、容易に認識される。ゆえに壁は空間的である。一方床は、主体の移動によって次々と眼前に展開する。その全貌は次々に、すなわち時間的にのみ展開される。ゆえに床は空間的であるのみならず、時間的である。この両義性を利用して能舞台では床によって時空が接続され断層は架橋されるのである。…そのために能役者は徹底的に低い重心を保たなければならない。摺り足で床の上を流れるように歩行しなければならない。また時には足底で床を強く蹴り、床の出す音が、舞台の下の瓶によって増幅され空間にわたるのである。音は、床に意識を集中せよという信号に他ならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?