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自然のいのち

兄の終の住処である田原市は愛知県の南端、東三河地方に位置する温暖な気候の土地である。

愛知県の西方には伊勢湾・三河湾がある。
そこには知多半島、渥美半島と二本の半島が突き出しそのどちらもが風光明媚で人間の生きやすい場所である。
私はその渥美半島の根元にある豊橋市で小学4年から中学3年までを過ごした。
豊橋市の私の住まいから渥美半島の先端にある伊良湖岬まで往復がちょうど100キロほどであった。
当時の私は家にいるのが嫌で、日曜日には必ず自転車でこの渥美半島一周かこの半島のどこかで釣り糸を垂れて時間を潰していた。
この馴染みのある渥美半島、田原市で障害を持つ兄が人の力を借りて生きていくようになるなんてその頃想像も出来なかった。

人の運命なんてタイミングだと思う。兄を身籠った母ハルヱは優秀な看護師で非常に慎重な女性でもあった。検診で兄の頭がデカく医師の勧めもあって帝王切開をするつもりでいたそうである。それを母の親友(そう聞いていた)である助産師の女性の一言「大丈夫よ」で自然分娩に挑み24時間かかっても出て来ぬ兄の頭を鉗子で掴みこの世に引きずり出し、生涯下ろすことの出来ない荷を背負わせてしまったのである。

月に一度、たった一人の親族である私は兄の生存確認に田原市に向かう。それは私に科せられた遠い遠い昔に犯した簡単に許される事の無い咎の償いだと思っている。仕事がどんなに忙しかろうと、どんなに疲れていようとも欠かしたことの無い償いなのである。
そこまで思い詰めるなと台湾の母黄絢絢から言われるが、そうでも考えなければ兄の存在の辻褄合わせが出来ないのである。だから足取り軽やかに兄の待つ田原市に向かったことは無い。

兄の施設は田原蔵王の麓にある四季折々の緑に溢れる静かな土地にある。兄の部屋からは太平洋が見え、その水平線を眺めていると地球が丸いと実感出来る。いつも変わらぬその美しい風景を眺めて兄と二言、三言言葉を交わして帰途につく。

来る時に降っていた小雨はあがっていた。クヌギの足元に生えて来た若木が色付いているのに気がついた。緑はクヌギの子であろう、赤や黄はどこの子なのであろうか。力強く葉を広げる若木に私は生きる力をもらい、今生きる意味を深く考えることは止める。

「この世に出たかぎり、死ぬまで生きる」と達観したことを言う兄に習おうと思う。そんな兄でも小学生の頃には死んでしまいたかったと言った。私より頭が良く、ませた子どもであった。寡黙な兄とはもともと多くを話する必要はなかった。ある部分は両親以上に兄を私は見てきているのである。耐えて生き抜いてきた兄を見ているのである。

足元に生える若木達の将来は分からない。生きるために当たり前の艱難辛苦を乗り越えて何本の若木が生き残れるのであろう。朽ち果てようが生き残ろうが若木は口を開かない。ああ、それでいいんだと思う。結果はどうであろうとも結果は結果であり、神にでも変えることは出来ないことなのである。受け入れる、ただそれだけが救いなのである。一番の苦を背負う兄が受け入れるならば私が受け入れないわけにはいかない。そこに生きる意味など見出すことは必要ない。それがどんな生であろうとも生きることに脇目を振らなければきっと納得いく人生になると思う。周りが見て思う、幸せ不幸せではないのである。


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