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食へのこだわり

私の食へのこだわりは人より強いものかも知れない。
しかしそれは私が美食家とかいう意味では無い。
出てくるものはゲテモノでなければ何でも『美味い』と思い食べる。
この『美味い』が大切だと思っているのである。

ただ食べて美味いと思うのは簡単である。
何も知らない子どもの頃はそうであったが、自身で料理をするようになり、気付いたことがあった。
それは食卓に上がる食事の用意一切は母がする、という当たり前であった。

その頃母は看護師として働いていた。
父と変わらぬ立場であったのである。
私と兄が口にしていた食事は忙しい時間の中、母は今のように一軒で全てが済むスーパーマーケットの無い時代に何軒もの店を歩いて食材を買い求めていたのであろう。
そして、料理をしてくれたのであろう。
障害を持つ兄の事、自身の仕事の事と考える事は多かったはずである。
父以上に多忙であったかも知れないのだ。
そんななか、私たちのために献立を考え、食材を考え、買い物先でまた知恵を使い、本当に大変だったに違いない。
準備を済ませて夜勤に出かけることもあった。

そんな当たり前に気づいてから私は何が出てきても『美味い』と言って食べ、感謝する。
それがいつしか習慣になったのだと思う

そんな日常で母の用意してくれた夕食にはカレーライスが多かったように記憶する。
カレーライスに必ず一品付いていた。
でも、洋食屋やカレー専門店がカレーライスの副菜で並べるような一品では無かった。
切干大根であったり、五目豆であったりと、取り合わせというよりも多分私たちの身体を考えての一品であった。

そして、カレーは具材は多いが元気のないカレーだった。
とろみに欠けるシャバシャバなカレーだったのである。

まだ母の苦労も知らぬ子どもの私は、ある母の夜勤の晩に私の理想に向かって母の料理に手を付けたのである。
母の愛読書であった『暮しの手帖』をこっそり読んで多少の料理の知識を頭に入れていた私は兄の賛同も得て母のカレーにソースを加え、片栗粉でとろみをつけたのである。

その時は美味く、満足の時間が流れたが、そのあと気付いたのは翌朝帰って来た母もこのカレーを食べるということだった。
母とは会わずに登校した私は夕方帰って母と顔を合わすのが気まずかった。
なのに出迎えてくれた母は「美味しくなってたよ」と言ってくれたのである。

そのずいぶん後、社会人になってからの帰省時の私の調理は実家で当たり前になっていた。
でも、この時の気まずさはずっと引きずっていた。
もうこの世に母のいない今もなお引きずっているのかも知れない。

優しい母がいて、子どもの私がいた。

天王寺駅北口にあるずいぶん長く通っている定食屋のカレーがこんなカレーなのである。
今亡き母を思い出すことの出来るカレーライスなのである。
今我が家では作らなくなってしまった懐かしのカレーライスがここにあるのである。
半世紀も前のうちのカレーがまだこの店には残っているのである。
この歳になり、ここで酒を飲み、最後にカレーライスを食べていつも思い出し、母に「あの時はごめんな」とつぶやき帰路に就くのである。

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