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桜の思い出

誰でもある程度年齢を重ねれば、こんな思い出はあるのではないだろうか。

三月が終わりかけるこんな雨の日のことだった。
認知症の進行した母をそれ以上父と一緒に生活させるわけにはいかなかった。
肝癌の進行した父のレスパイトのためでもあった。
父が透析治療に出かけている間に母を高齢者施設に緊急入所させてもらった。
この時家を出ればもう二度と帰れぬかも知れぬ母の外出であった。
私は少しでも母の記憶に楽しい時間を残そうと思い急いで弁当をこしらえ、時間を見計らい二人で車で出かけた。
久しぶりの外出、それも最後の外出となるのかも知れないのにあいにくの春雨であった。
それでも私は母に菜の花とともに咲く桜の花を見せたくて母の好きだった佐奈川の土手に車を走らせた。
どこまでも続くかのような母の好きだった菜の花の黄と桜のピンクの土手だった。

しかし、病身の父には到底無理だった母の介護で母の機嫌は最悪に悪かった。
私は生まれて初めて母の怒りの形相を目の当たりにした。
そこには鬼のような顔をして口汚い言葉を吐き散らし怒り狂う知らないおばあさんがいたのである。
花にはすべてを癒す力があると信じていたがそうではなかった。
母との最後の昼食も車の中にまき散らし、私はただただ平静を装うしかなかった。
母ではないのである。
悪いのは母ではなくアルツハイマーという病魔なのである。
そう思い私は車を出発させた。
そして母を施設に預けたのである。
頭を下げて母を棄ててきたのである。

そしてまた一年後の菜の花が気持ちが悪くなるほど咲き乱れる渥美半島の田原市にある身障者支援施設に兄が入所した。
二度と出ることは無いことを本人は了承して入所した。
そこでもまた私は頭を下げて兄を棄ててきた。
暮れかかる田原から見える三河湾は綺麗である。
赤い夕陽に黄色の菜の花、まだ冷たい空気には菜の花の匂いが染み入っていた。
私は車の窓を全開にして振り向くことなく大阪に向かって車を走らせた。

そして今、生き続けることを贖罪のように思うことがある。
全ては両親の敷いたレールであり、してきたことは誰がやっても同じだっただろう。
だから、割り切ればいい事なのであるが、それが出来ないのが人間だろう。
私はこんなことを口に出して誰にでも言う。
それはその方が楽になれるからである。
口に出さずにもっとつらい思いをして生きている方はたくさんいるに違いない。
長く生きれば誰にだってそんな経験や思いはあるに違ない。
この時期の桜や菜の花を見て綺麗だと思う。
ただ、それだけである。
それ以上は考えない、考えないように自ら訓練してしまった。
桜や菜の花にはなんの責任も無い。
いつも申し訳なく思ってしまう。

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