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餃子とともにいきる その第二回

愛知県豊川市、愛知県の東部に位置し、名古屋は尾張であり、豊川・豊橋は三河の中でも東三河に属する。
田畑の広がる三河平野は世界銀行からの日本初の借款のもと建設された豊川放水路により一級河川である豊川(とよがわ)の氾濫は無くなり、豊かな農業地帯となった。

信州へ続く日本で一番トンネルの多いJR飯田線は豊橋駅がターミナル、東海道線、名鉄本線のみならず、豊橋駅はこだまと一部のひかりが停車する新幹線駅ともなっている。

太平洋に面する外海は、島崎藤村の『椰子の実の歌』が生まれた伊良湖岬に続く太平洋ロングビーチが続き、その白浜はサーフィンのメッカでもあり、子どもの頃、遊泳禁止の看板を横目にしながらの私たちの楽しい遊び場であった。
内海の三河湾は私たちの釣り場、いつも静かで、朝、夜関係なく、釣れる釣れないも関係なく、釣り糸を垂れる私たち子ども達の語らいの場でもあった。

そんな東三河の豊川に小学生4年までいた。
父の会社は豊川市に第二次世界大戦中あった海軍工廠(工場)の跡地に当時のゼネコンでは先駆けで建設機器の工場を持っていた。
父はそこの電気技師だった。

4階建ての鉄筋コンクリートの社宅、当時の公団住宅の標準タイプと同型の2DKに家族4人で生活していた。
母は看護師として働いていたから食事の支度が大変だったに違いない。
時々、私が使いで行かされた中に『餃子富士』という名の餃子屋があった。
当時はまだ餃子専門店は珍しかったに違いない、食べ物屋自体少なかった。
父の友人の食通が父に近くにこんな店が出来たと教えた。

父と初めて行って餃子を食べた。
メニューには餃子とビールと酒しかなかった。
父はもちろん酒である。
カウンターの向こうで餃子を包む若い店主を前にして、父がちびちびと酒を飲む横で食べた餃子は美味かった。
ニンニクとニラの存在を初めて知った。
ラー油とも初めての出会いだったかも知れない。
そして土産で持って帰った餃子がその日の晩ごはんのおかずだった。
炊き立てのご飯とバランで包まれた餃子と付け合わせのモヤシを酢醤油とラー油で食べた。

それから時々、母に頼まれて使いに走った。
持ち帰った焼き餃子は店で食べるそれとは違い、パリッとすることはなく、皮が柔らかくなっていたが、家族四人で食べる餃子は幸せの味がした。

この餃子の味も思い出せない。
これ以降、似たような味に出会ってないのだと思う。
近所の公設市場の総菜屋で時々母が買ってきたニンニクの入ってない総菜餃子とは違う本格的な餃子だった。

普通、臭いのする餃子を弁当に入れはしないであろう。
しかし、我が家では普通に弁当に餃子が入ることがあった。
朝から教室は餃子の匂いが漂い、また宮島の弁当かと皆の周知となっていた。
食べるものに男は文句を言うなと、母の強い信条のある体育会系の宮島家であったのだ。



餃子に関わらず、食の思い出は食べたそのもの自体の思い出のみではなく、その時あったことその時の環境とともに憶えているはずです。
たまたま、ほかの人より餃子をたくさん食べてきたかも知れません。
だから餃子とともにある思い出は尽きないのです。
その時口にした餃子は本来の味ではなく、そのタイミングで甘い餃子、苦い餃子もあったかも知れません。
でも、それは餃子のせいじゃないんですよね。

忘れている記憶の引き出しを引いてくれる餃子に感謝しています。

餃子の話はまだ続きます。
よろしくお付き合いください、、、

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