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みわくの中華料理 その3

父は長野県飯田市のはずれ、愛知県境に近い山の中で育った。
平地の無い山の農家に稲作は不可能に近かった。
それこそ猫の額ほどの狭い耕作地が段々に続き、そこで行われる水稲耕作は機械を入れることの出来ない過酷な重労働だったそうである。

換金価値のある農作物を求め、私の子どもの頃には養蚕も行われていた。
二階建ての一棟がカイコの飼育舎になっていた。
舎中には複層になったカイコ棚があり、24時間桑の葉を『お蚕様』に与えなければならない。
化学繊維が世に普及するまでは貴重な現金収入となる『お蚕様』であった。

いつ行っても薄暗い室内はカサカサとカイコが動きながら桑の葉を食む音で不気味だった。
目が慣れると奥に飼い猫のブチが何かを待ち構えるかのようにジッと控えていた。
カイコを襲うことのあるネズミ除けに猫は地域の農家の守り神のようでもあった。

一家総出でカイコを大切に育て、繭から絹糸を紡いだ。
まずは大釜の沸騰した湯の中に死んでいない繭を放り込むのだ。
カイコの生涯は人間の欲のためにそこで終わってしまう。
そこで感謝の気持ちを忘れぬためか、罪悪感を拭い去るためかそのカイコのサナギを甘辛く煮て、佃煮にするのである。
イナゴ、蜂の子と同様に寒村の貴重なタンパク源となる。
父はそんなふうにして、ある意味自然とともに生きてきた。

海外での長い赴任生活のなかで食べれないものは何もなかったと聞いた覚えがある。
ずいぶん変わったモノを食べた話を聞いた。
その中で私が「本当かよ。」と思ったのが今回の話である。

父もゼネコン社員だった。
50年ほど前、香港の啓徳空港の建設に携わり、長く香港に単身で赴任していた。
時代も時代、まだ若かった父は好き勝手に遊んできたようである。

地元の業者からの接待は毎晩だったようで、ある晩連れて行かれた料理店の円卓には中央に丸い穴が開いていたそうである。
そこに登場したのは生きた子猿である。
円卓の底から小猿の頭はその穴に固定され、料理人がその頭蓋のぐるりに包丁の刃を回す、そしてそれはヘルメットのように外れたと言った。
まだ子猿はそれを気づかないかのように変わらぬ様子でキャッキャッと騒ぐ。
露出した脳に最初の一匙を突き立てた瞬間に子猿は絶命したのだと父から聞いた。

なんとも恐ろしい話であるが、中国の『満漢全席』にはそんなのがあると豊橋駅前の精文館書店で立ち読みして驚愕した。

なぜそこまでやってしまうのか。
それは食への追求とは呼ばず、あまりにも満たされてしまった人間の究極の暇つぶしでないかと私は思った。
そんな暇つぶしに付き合わされた猿が可哀そうである。
なんだかあらぬ方向へ向かいがちの今の世に似ているような気がしないでもない。

どうせ食べるのならば美味しいものを食べたいとは誰もが持つ欲求だと思う。
しかし、私は経団連会長を務めた土光敏夫さんの有名な、玄米とメザシ、一汁のみの食事を見習いたい。
質素ではあるが、実は素材そのものの味の一番わかる美味しいものであることも知っておきたい。

そしてここで思い出すのもまた豊橋駅前精文館書店で高校一年で膝のじん帯をサッカー部での練習中に切り、痛い足のまま立ち読みした紀行文である。
どこかの国の人類学者がパプアニューギニアの食人種の調査に赴き、人肉の味が何に近いか現代人の食品を持っていき食べさせた結果、一番近い味はなんと『化学調味料』○○の素であったという話である。

これもまた私からすると不思議で怖い話であった。

日々に費やす『食』の時間を有意義な積み重ねにしたいのが私の考えである。
人と話し、食べる。
ひとり考え、食べる。
その時々の場面、考えはすべて記憶の層となり人の心に残るであろうから。

たまたま子どもの頃出会った母の親友、台湾の黄絢絢さんのおかげで私の記憶の層の多くは『魅惑の中華料理』で出来上がっている。

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