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夢の話そして焼鳥屋の話

夢を見ていた。
兄貴と酒を飲んでいた。
そんな夢は生まれて初めてのことで、母もこんなふうに普通の身体で成人した兄の姿を夢見たのであろうか。私より体が大きく精悍な顔つきの兄貴は「飲め飲め、食え食え」と私に酒を勧めていた。
こざっぱりした古い個人経営の焼鳥屋だった。そんな焼鳥屋が私は好きである。これまでずいぶんいろんな飲み屋で酒を飲んできたが、大きなハズレがないのがこの焼鳥屋である。

そんな焼鳥屋にデビューしたのは私が十八の時である。高校を卒業し、私は愛知県豊橋市の魚市場で働いていた。面倒見のいい先輩たちに歳の若い私はずいぶん夜の世界を案内してもらった。寿司屋、割烹、小料理屋と、あとはスナック、クラブである。取引先が多かったせいか焼鳥屋には行ったことが無かった。

卒業した高校は新設の普通の公立高校だったが、進学しない人間は少なかった。「ボーナスが出たから飲みに行こう」と私を誘った彼はその少数派であった。家の事情で進学せずに当時あった電電公社に就職したのであった。親父は売れない作家で、お母さんが家にいるのを見たことが無かった。彼は私の母と仲が良く、私がいなくともやって来てお茶を飲んで話をして帰って行った。真夏に革ジャンにジーンズ、黒のブーツ、もちろんポマードでぎらつかせたリーゼント頭でやって来た。私が帰ると「○○君、夏服持ってないんじゃないの、」と、時々とぼけた母だった。

電電公社のすぐそばにその焼鳥屋はあった。公社御用達のその店の主人から「未成年、飲みすぎるなよ」とたしなめられて出されたヒネ鶏のネギマが美味かった。
これが私の初めての本当の焼鳥で、焼鳥屋デビューであった。モツの煮込みは隣町岡崎の八丁味噌の煮込みだった。これも美味で、親父のたしなめもなんのその、ぐでんぐでんに酔っぱらって帰宅し、翌朝これまた二日酔いのデビューも果たしたのであった。

その気になれば、ビール一本、酒一杯に焼鳥数本でリーズナブルに至福の時間を手に入れることが出来る。そんな素敵な焼鳥屋で記憶に残る店が何軒かある。

そんな中の一軒で大学時代アルバイトをした。西武池袋線江古田駅から歩いて五分の場所に新しく出来た焼鳥屋だった。なんとなく気になり、初日から三日ほど続けて行った。陰気な親父は脱サラだった。「いらっしゃ~い」は入って来た客の誰をも一たび不安に陥れた。でもそこの焼鳥は不味くはなかった。接客が似合わない優しい奥さんと二人での切り盛りだった。三日目に「宮ちゃん、うちでバイトしてくれない?」と声をかけられた。いきなり宮ちゃんである。晩飯は腹いっぱい食わしてくれるということで日中が稽古日の月・水・金の夕方働くことになった。

ホールの仕事だった。やって来る客には可愛がってもらった。当時の三菱銀行江古田支店の御一行様はいつも景気よくビールの栓を開けさせてくれた。そして私はいつもご馳走になり酔っ払った。それも接客だとおおらかな親父だった。
私はここの「鶏皮ポン酢」が好きだった。どこの居酒屋にもある料理ではあるが、湯引きや揚げた皮にポン酢をかけるだけではなく、湯引きを一晩漬けこんでいた。今でもこれが酒のアテには最高だと思っている。毎回晩飯のオカズは焼鳥だったが、勝手にこれを持ち出し食べて味をしっかり憶えておいた。

それをそれから30年も過ぎて思い出して作ったのが下の写真である。一手間加えて細切りにした。私が飲み屋をやっていた頃の一品である。とても人気でわざわざこれを食べに来てくれるお客さんもいた。

叶わぬ夢ではあるが、兄貴と焼鳥屋で酒を飲んでみたい。
多量の抗てんかん薬は酒との相性が良くないようである。それ以前に兄貴は酒など飲みたいと思わないと言う。少し寂しい気もするが、それはそれでいいと思う。

私も酒を強く嗜好しているわけではない。もちろん依存もしていない。無きゃ無くても生きて行けると思う。気持ちの切り替えやバランスのために酒を使うことがある。実はその程度なのである。ただ、飲めば美味いと思うし、良い酒は良い人との接合を作ってくれる。そんな酒に礼儀を尽くさねばとも思う。だからどうせならと、美味い酒をより美味く飲むために店を選び肴を選んで酒を考える。
それが私の流儀なのである。

今宵また夢の中で笑い泣く思い出の味と思い出の女性(ひと)に


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