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心残りの食べ損ねたラーメン

ふと思い出すことが多くなってきたが、先が近づいて来たってことじゃないかと思ったりしている。先が近づいたと言っても今日明日のことじゃない、子どもの頃よりはずっとこの先の世界が近づいている、そんな話である。
子どもの頃の記憶は褪せて薄くなっていくが何かをきっかけにカラー写真のように鮮明に思い出すものである。

2月22日猫の日に京都大原野のNPO、『竹ネット』の事務所で話しているなか、これから出てくるタケノコの伸びてしまったのでメンマを作ろうかなんて話がでた。煮たり干したり発酵させたりと限られた人数では手間がかかるから無理だなぁ、と終わってしまったのだが、私はその時、今から五十年も前に食べ損ねたラーメンを思い出していた。

当時住んでいた愛知県豊川市の父の会社の社宅近くにスズキの工場があった。その近くに美味いラーメン屋が出来たと評判だった。私の仲の良い同級生はサラリーマン家庭ではなく、製材所を営んでいた。私の薄らいだ記憶ではトヨタの梱包材を製作していて羽振りのいい家庭だった。お母さんも仕事を手伝っていたから、外食の多い家庭でよくあちらこちらでした食事の話を聞いた。まだそれほど外食が一般家庭に定着していなかったと思う。我が家では父の盆暮れのボーナスの時に豊橋の街中まで一張羅を着せられて連れて行ってもらい、兄と同じおもちゃを喧嘩しないようにと一つづつ買ってもらい、その帰りに中華屋かとんかつ屋に連れて行ってもらった記憶しかない。だから、その同級生が行って食べてきた毎回違う料理の話を聞き羨ましさとともに口にすることのないその料理を妄想していた。

そして、ある日聞いた話にとても私の気持ちは動いたのである。
夜、評判のラーメン屋に行って来たと言うのである。当時はまだラーメン屋が今のようにそこかしこにあるような時代ではなかった。しかも、一般家庭では食事の終わった遅い時間に夜食として食べに行って来たと言うのだ。
それだけで十分私の好奇の心はそそられた。ラーメンは縮れた麺で醤油味のスープは熱々だと言う。おまけに、メンマが大盛りでモヤシがどんなに美味いかと説明するのである。私は日曜日の昼に食べる母の作ったインスタントラーメンしか知らなかった。モヤシは母が炒める水っぽくなったモヤシ炒めしか知らなかった。どうしてあのモヤシが美味くなるのか、どう想像しても理解出来なかった。すると私の恍惚の顔を見ていた同級生は「宮ちゃん、一緒に行こうか」と、すぐに事務所にいたお母さんに了解を得て来た。

次の土曜日の夜九時に同級生の家まで行くことになった。夢のような話は全て整ったかのように思えたが、やはり母に一蹴された。却下である。
いくらご両親が一緒でも、そんな時間に食事に出かけるなんてまかりならん。たぶんそんな感じだったと思う。
それからその事を何度か思い出した。でももちろん想像だけである。
いつも想像する永遠に食べることの出来ないたぶん私の生涯における一番美味しいラーメンなのである。



へッダーの写真はラーメンとは関係ないマカロニサラダです。
早朝、急にマカロニサラダが食べたくなり作りました。途中ハムが無いことに気がつきました。それでも何かコクのあるものを加えたくて冷蔵庫にあったトマトを一つ細かく刻み、フライパンで水分を飛ばしてトマトの味を濃くし、旨味を出しました。大変美味しいマカロニサラダとなりました。

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