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春の出会い

合気道の話です。
20歳で合気道を始めましたから足掛け43年間、途中仕事や家族のことで稽古ができない時期もありましたが、ほぼずっと合気道の稽古を続け、合気道のことを考えてきました。
大学に入学してひょんなことで始めた合気道をここまで続けるとは思いませんでした。
ではどうして合気道を今まで続けてきたかと言いますと、「忘れたくなかった」からです。

この忘れたくなかった、というのが微妙と言いますか、曲者です。
では私が何を忘れたくなかったのかと言いますと、ざっくり言えばもちろん合気道です。
でも、学生時代の合気道の稽古の思い出と言いますと辛く苦しいことばかりしかありません。
それを思い出すとどうして今まで続けてきたのだろうと考えてしまいます。

よくよく考えれば、たぶんまだ合気道の入り口に立ったばかりの私にとっての「忘れたくなかった合気道」は、出会った師だったと思い当たりました。

当時はまだ合気道は今ほどメジャーになっていませんでした。
合気道開祖植芝盛平の子息の植芝吉祥丸道主は合気道を広めるために、将来を見据えて大学合気道部を育てることに力を入れました。
合気道道場としての採算は度外視して合気道の種まきに力を入れたのです。
そして各大学の合気道部に本部道場の師範を派遣しました。
私たちの合気道部の師範、市橋紀彦先生もそのなかのお一人でした。
私が入学した年、市橋師範は40歳でした。
ちょうど私と20年の年齢差がありました。
私たちが大学4年間でどんなに頑張っても合気道で市橋師範の足元にも及ぶことは出来ません。
厳しい師範でしたが、合気道のことで叱られた記憶はありません。
「とにかく楽しくやってくれ」と私たちに合気道の楽しさと面白さを伝えようとされていたと今になって思います。
厳しく叱られたのは生活態度においてです。
卒業して社会人となる私たちを故郷の両親に代わって厳しく指導してくれました。

合気道は武道です。
武道の「道」は「武の技術」という意味ではないでしょう。
人を倒すことはあんがい簡単です。
でも、多くの人と生きることは非常に難しいです。
これが「道」なんだろうと思います。

卒業前に歌舞伎町で酒をごちそうになりながら「畳の上の稽古が合気道のすべてじゃない、この先を生きていくすべてを合気道だと思ってくれ」そう言葉をいただきました。
今の私の合気道はそこからスタートしているように思います。

そんな市橋師範は60歳で他界されました。
その年齢を過ぎて今も私が合気道を続けているのは市橋師範と合気道に対する恩返しです。
市橋師範との出会いを忘れたくなかったからかも知れません。


今日は春の訪れを思わせる温かな一日でした。
年度の改まりに近づくこの時期が来るといつも大学入学前のそわそわとワクワクを思い出します。
合気道との出会いも、市橋師範との出会いも想像だにできなかった時期を思い出します。
その時のそわそわとワクワクの春の予感は合気道と市橋師範の出会いだったのかも知れません。




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