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合気道の受け身、そして『逃げる』こと

合気道は取りと受け、技をかける側と受け身をとる側で繰り返し繰り返し一つの技を稽古します。
そして合気道には試合がありません。
とても地味な武道かも知れません。
投げられ技を身体で覚え、いつしか相手の技に合わせた受け身を取ることによって相手を導き、技の正しい型を教えていくようになります。
老若男女、初心者も熟練者もが一緒に稽古する中、熟練者が初心者の受けを取らなかったり、力の強い者が弱い者の受けを取らない事は決してありません。必ず交互に稽古を続けなければなりません。
それが合気道の素晴らしさの一つだと思っています。

道場から出て、実生活においてもこの合気道の受け身は同じことと考えています。そこには自分が好もうと好まざるとも多様な方とお付き合いしなければならない現実があります。合気道の稽古のように、いちいち腹を立てることもストレスを感じることも無いよう日々の生活を目指すのですが、なかなかそういかない私がいます。この歳になっても腹は立ち、ストレスはたまり自分の未熟さを感じずにはおれません。まだまだ修行不足です。

攻撃の無い合気道をネガティブな武道としてとらえていらっしゃる方がいますが、決してそんなことはありません。私は合気道の受け身を消極的であったり、ただただ相手の力に任されてしまうものとは思っていません。自ら相手と一体となり技を受け入れ自身のペースで畳に身体を着地させます。ですから本来の合気道の稽古で身体が痛いということは無いのです。わが師、市橋紀彦師範がよく「稽古は楽しく気持ちのいいものでなければならない」と仰っていました。学生時代にはただただ痛く苦しい合気道でしたが本来の合気道はそうではないのです。

そして、その事は私たちの実生活にも言える事でした。どこに行っても嫌なヤツはいます。かかわらなくて済むのであれば関係しないのが一番でしょう。でもそうもいかない現実のなか、いつまでも遠ざけていればそれは合気道で言えば稽古の始まっていない状態です。年齢の若かった頃の私は、いつも相手の懐に飛び込み袋叩きに合いながらも耐えて関係を作ることが出来ました。しかし、それは若くて今よりも強い耐力と体力があったから為せた技です。

年齢を重ね良い意味で狡猾になった私はその頃より受け身も上手になりました。これには経験が大きいと思います。身体と頭で経験し、いろいろを積み重ねてきた結果です。相手を受け入れる包容力のようなものが大きくなったというか、柔らかくなった感じです。その包容力を袋に例えるならば袋が柔軟になった感じです。そして、時には逃げることもします。とことん戦い相手を傷つけてしまったり、お互い瀕死の重傷を負うことは決して美徳じゃないと思います。そこには本能のようなものも必要です。「ヤバい」「イヤだ」と感じる相手からは離れても決して負けではありません。決して一般的に言う「逃げ」とは違うと思います。
戦わずして勝つ、という言葉がありますが、戦わないことが一番の戦いでもあるのです。

合気道の受け身は武道としての技術かも知れません。しかし、そこにはもっと探求しなければならない深い何かがあるようです。市橋紀彦師範の道場での立ち姿、黙って立たれていた涼しい目を思い出します。そんなことも私たちに伝えてくれていたんじゃないのかなあと、今になって思い出します。


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