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夢であいたい

歌謡曲の歌詞のようなタイトルである。
夢でもし逢えたら素敵なことね、、本当にその通りである。
夢で逢いたい人が私にもいる。生きた人間にも、先にあの世で待ってくれている奴らにも。

ここのどこかで以前、私のまわりには自死を遂げた人間が多いと書いた。そんな連中の事をこの年齢になって時々思い出すようになってきた。その中でも社会人となって先にあの世に行ってしまった歳の近かった三人がよく出て来る。

一人は関西の地方都市で建設業界では有名な不動産屋の専務の息子である。私が営業時代にあることがきっかけで不動産の『いろは』から教えてくれた恩人である。息子はこの親父のコネで大手の不動産会社に入った。10歳年下のその息子をある物件の打合せに連れてきて「宮島さん、面倒見てやってくれ」と言われた。頭のいい、やさしい息子だった。不動産には向いていないとすぐに分かった。その大手不動産会社にリストラがあって彼は辞めた。人の足を引っ張ってまで残れるような奴じゃなかった。不動産はやめるとそいつは言った。完全に親父の手は離れた。違う業界の仕事を紹介したが頑なに「自分で探します」と言う。結局不動産以外を二社歩いて自身で介護事業を始めた。そこまでの話は時々酒を飲みながら聞いていた。そこからである。資格はどれも一発で取り、会社も興した。順調と思っていた矢先に親父から電話が来た「マンションの屋上から飛び降りた。」と。
仕事と家族に挟まれて少しおかしくなっていたようだった。そうなってしまってからではもうどうしようもない。悔やまれるばかりである。今も後期高齢者になった親父からLINEが来る。趣味の蘭の花や不思議な色のメダカの写真を送ってくれる。会ってみたいがなかなか気持ちが先に進まない。

もう一人は大学空手部の同期。仲間のうちで珍しい自宅からの通学生、しかも徒歩圏内でよくお宅まで行ってお母さんもいないのに勝手に冷蔵庫を開けてメシを作って食い、ビールを飲んでいた。お父さんはサラリーマン社長ではあるが裕福な家だった。この男は私と同じ業界に入った。最初から営業所属。そこで創業家社長の息子である先輩にいじめられノイローゼになった。寺社仏閣で有名な一部上場会社である。私が京都赴任中に彼女を連れてやってきた。夜明けまで飲み、東山清水あたりの高級住宅街でピンポンダッシュをした。私たちは同じ26歳だった。
彼が会社に足を向けることが出来ずに家に居た時、何度か東京まで行き朝まで酒を飲んだ。夜明けに駅前で若い男にあいつが絡み、喧嘩になりかかったが一方的に殴られた。もう学生時代のあいつじゃなかった。私は何も出来ずに黙って見ていた。悲しさばかりがこみ上げていた。それから時間はかかることなく「服薬自殺した」と、東京から連絡が来た。
京都まで来た彼女は私の部の後輩だった。

そして、もう一人はゼネコンの先輩、今とは違い数少なかった若手の営業マンの先輩だった。面倒見の良いその先輩はたまたま同郷だった。私の両親が死との境を彷徨っている時に兄の終の棲家が見つけることが出来なくて先輩のお父さんに頭を下げに行った。以前そこの副市長をやっていた人だった。「正攻法でいきなさい」と言ってくれた方であった。その言葉で毎日健康福祉部に行き、最後に「来月会社に戻れなかったら、ここで首を吊って死ぬ」と言ったら翌週決まった。ゼネコンでは性格の悪い営業部長につかまってしまいトコトンいじめられたのが原因だった。うつ病を患った。この先輩は自分で自分の首をネクタイで絞めてあの世に行ってしまった。この営業部長の下で私は三年間仕えた。

三人と会って話しがしたい。
元気にやっているよ、と。
次にこの世に出て来た時にはテキトーにやりなよと言ってやりたい。
テキトーにやって来た俺は今も元気にやってるよと言ってやりたい。
世の中ってのはそんなもの、ハスに構えたらちょうどいい。
でも、私もこの歳になるまでわからなかった。
「ごめんな、俺だけまだ元気に生きてるよ、」って言ってやりたい。


昨日は合気道の所属する会の年次総会だった。久しぶりに北新地の入り口まで行った。人の歩かぬ日曜の御堂筋を淀屋橋に向かって一人歩いて帰った。

北新地の角地
猫の額の解体・建替え、ブウニャン、ビックリ!
栄枯盛衰

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