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南信で考えたこと(竹の旅の記録)

宮島のこの理事長との付き合いは長い。足掛けで25年の月日が過ぎる。
まだゼネコンにいた時、入社後二度目の京都赴任を営業職の立場で命じられた。赴任初日からいきなり四条河原町のマンション建設の地元対応の責任者を仰せつかり発注者であるデべとともに地元自治会長らへの挨拶に回って夕方営業所に戻った。事務所は高島屋の並びの南に少し下がった河原町沿いにあった。8階の事務所に入るとそこから見える東山の山並みは夕陽で赤く染まっていた。そんなデカい一面のガラス窓の前に所長の机はあり、社内だけで使う応接セットがあった。そこには昔京都での事務職時代世話になった顔と見知らぬ強面の顔があった。

所長は「宮島君、お疲れさん。」と隣に招き入れる。「宮島君、西田さんをよく知ってるんだってね。」
世話になった顔の西田は京都南部の土建屋の社長、宮島が入社時に可愛がられた所長の肝いりで土建屋の社長になり、ずっと会社の直庸業者として大事にされている社長だった。知り合った時には反社会勢力団体から足を洗う時に片手の整理をし、若い頃のヤンチャからもう片手の整理もついていた。シャツを脱いで裸になっても脱げないシャツを着ている方だった。足を洗わせてもらった所長に固く義理を貫き通し、所長が可愛がる宮島のことも可愛がっていたのである。

その西田が連れてきたのが理事長であった。理事長は当時京都南部衛星都市の役人であった。
万人に公共と福祉を行き渡らせるためのセクションの若い部長職であった。この時の理事長は必要以外のことは話せず、にやりとも笑うことは無かった。仕立ての良いダブルのスーツを着て、煙草を吸うのが似合っていた。会社の事務所でビールの栓を抜いて何本か飲み、そのまま祇園のクラブまで行った。

宮島はその時のことはそれくらいしか憶えていない。たぶん緊張していたのであろう。それから理事長との付き合いは始まったのである。
当時も役所の人間が民間人それもゼネコンの営業マンと一緒に行動をすること、それも飲食の場を介しての行動はご法度であった。それを承知で理事長は宮島を夜の席に招き入れた。役人だけの勉強会と称する飲み会にもいつも同席した。そしていつも支払いは理事長だった。「ややこしくなるから、お前は払うな。」と。いつも扶養家族の宮島であった。

不思議な付き合いではあるが理事長はただのお人よしではない。先を見る眼を持った頭のいい人間であった。旧態依然とした遅れた行政のやり方のすべてをそれで良しとはしていなかったのである。宮島を使い、新しい建設業界の知識や知恵も取り入れて、全てを住民のために役立てることに照準を合わせて日々戦っていたのである。

それから、長い時間を経て、現在放置竹林整備のNPOの理事長を務め、日々忙しく竹の相手をしている。放置竹林整備問題は竹の育たない北海道を除き日本全体での問題である。もともと人の手で植林した竹を生活様式が変わったため使わなくなってしまったのと、自身で所有している竹林の管理が所有者の高齢化によって出来なくなってしまった大きな二つの理由がここまで放置竹林を広げてしまっている。地震が起きたら竹林に逃げ込めと言うが、密集具合の過密になった竹林の地下茎は一枚のジュータンのようになって昨今のスーパー台風や大雨で一気に山崩れを引き起こす可能性が高い。そのため各自治体は防災面からもこの放置竹林問題を重要視している。しかしながら行政での対応は遅々として進んでおらず各地にあるNPOなどに頼っているのが現状である。そして、理事長たちが運営するNPO法人京都発・竹・流域環境ネット(通称:竹ネット)は日本各地の放置竹林整備の団体とつながっている。

今回の長野までの遠征はNPOの技術顧問の発案であった。この技術顧問は宮島の元上司である。大阪の大手私鉄の設備責任者を務め子会社である設計事務所の役員を務めてきた。これまでの大阪梅田の都市開発に深くかかわって来た人間である。その顧問の大学同級生の息子さんが大阪の電器会社を辞めて長野で農業を行っている。そのトマト栽培の土壌に竹チップを活用してみてはどうかという話の流れで今回に至った。現在使っている土壌のピートは輸入材でご多分に漏れることなく値上がりしているということであった。竹粉は古くから農業には使われており、土壌改良にも肥料としても使われ農作物の育成には良いと言われているが具体的なデータは無く今後そんな取り組みが必要かも知れない。

72歳の理事長と84歳の顧問を乗せての車の旅であった。泣き出しそうな空のあいにくの天気ではあったが行く途中は何とか持ってくれた。着いた先は西に中央アルプス、東に南アルプスを望める風光明媚な山里であった。そこでまだ新しいハウス内でミニトマトの栽培がなされていた。清潔で明るいハウス内にはトマトの苗木の植えられたポットが並べられ、伸びるツルは天井から下がる紐に絡んで育てる収穫のしやすい効率的なものであった。適度な水やりも液肥の投入も自動制御で行い、これまでのデータに基づいての作業とのことであった。明るく清潔なハウス内で管理されたトマトは水を吸い過ぎることなく育ち、甘く美味い。これらのデータはすべて残してこの先農業を志す若い就農者たちに伝えたいと、今後の展望を考えていらっしゃる。こんな農法を「スマート農業」と言うらしい。町のホームページにもその事を謳っているがまだこの農園1軒だけのことのようであった。


長野でも理事長の背中はデカかった。
ハウス内はとてもきれいでした。
西に中央アルプスを臨む里
甘くて美味しいトマト
BtoC事業に備えて現在ホームページは閉鎖中です。
もうすぐ甘くて美味しいトマトが日本中の食卓で召し上がることが出来ますよ。

安定した大会社の先の見える人生に嫌気がさし、家族とともに新天地に移住しての生き方に宮島は親近感を覚えた。陽に焼けた黒い顔にギラギラ光る眼は宮島に昔を思い出させる考え働く男の顔であった。

そして、左手に駒ケ岳を見ながらさらに北に進んだのであった。今回の長野行きの理事長の一番の目的はこちらにあった。
長野県南部にある南信の市に彼女はいた。京都市職員として竹ネットの運営に尽力してくれた女性が京都市を辞職し、こちらの市の職員となっていたのである。地元大学の農学部の出身の彼女は生地である京都をご主人とともに離れて市の農政課に勤めていた。ご主人は大阪の金融機関を辞めて木工職人になるべく目下修行中である。まだ三十代前半の二人の生き方には共鳴するものがあり羨ましささえ宮島は覚えた。

ホテルにチェックインし、彼女の予約してくれた焼鳥屋に時間は早いが出かけて先にビールを飲み始めていた。不思議であるが、宮島の知る長野には美味い焼鳥屋が少なくない。ここの焼き鳥も地の食材・野菜類はどれも宮島の好みであった。

大京都市を離れて地方都市での農政に携わる彼女にあった理想と現実は如何様なものなのか。理事長と彼女の席から離れた宮島には二人の会話は聞こえてこず、顔色からそれを伺うしかなかった。行政OBとして人生の先輩としてたぶん励ましもあったのだろう。こんなところが理事長の良さなのである。損得を考えずに人の話を聞き、忘れることがない。そして日本全国のどこにでも出掛けていくのである。
その後二人を送り、違う店で馬刺しを食い、地酒を飲み比べた。地方都市の夜は早い、三人はホテルに戻り早々に夢の国へ入っていった。

焼き鳥に甘いキャベツ
モツの煮込みは十代で食べた豊橋の飲み屋と同じ味
甘い豆腐に甘い新玉ネギのトッピング、当然甘~くて美味い冷奴だった。
ホテルから見える飯田線北伊那駅。
ターミナルである我が故郷豊橋までなんと6時間以上かかる単線である。駅が82もあった。
ちなみに飯田線豊橋駅~辰野駅までで94の駅がある。


北伊那駅の踏切、白く見える山は駒ヶ岳です(たぶん)


世の中は「金がすべて」と思える時期もあった。しかし世の中は過去も、そして今も人で動いていた。一度の人生を悔いなく生き切るには何を考え何をすべきか宮島はまた考え出していた。

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