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自分らしくいれる場所が一つでもあれば、最高だ。

「自分らしく」ってよく言うけど、
わたしはこの定義を「心も体も無理していない自分」という形で位置づけつつある。

この記事は、「セクシャリティ」に関する話。


昨年から映画やドラマを通して、知らず知らずのうちに頭がアップデートされることがあった。

また、あっけらかんとしている性格により、
知人がカミングアウトしてくれることも増えた。


昨年観た映画だと「怪物」は記憶に新しい。

たった1つの出来事が、視点を変えるだけでいかようにも変わるのを思い知った。


先月観た、「ネクスト・ゴール・ウィンズ」。

0対31という屈辱の結果を残した米領サモア代表サッカー選手たちと監督が、1ゴールのために奮起する話。

終始コメディタッチだが、
サモアの文化である第三の性「ファファフィネ」の選手の背景も添えられている。



さらに、今放送中の「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか」。

古い価値観で凝り固まったおっさん(原田泰造)が新しくできた若い友人との出会いをきっかけに、
自身の家族や会社でのスタンスをアップデートする話だ。


どれも男性が中心の話ではあるが、
男という性だけであって、
気持ちや心はそれぞれ違う。

ただ、
共通しているのは、「理解されない苦しみ」。

周囲からどう見られるかはもちろんだが、
特に親でさえ認めてくれない(気づいてもらえない)ことが一番苦しいことなのかも。と作品を通して感じることが増えた。

それと同時に、
この気付きは母親を経験していないわたしだからこそ感じる視点だ感じている。


例えば、
わたしは親の「気持ち」を想像することはできるけど、「視点」は分かりきれていないのが本音だ。

だから友人がママトークをしても母親ではないから一歩入り込めない感覚があり、
思ったことを本音で言えないこともある。

言ってしまうと、
「一生懸命子どもを育てている友人に失礼かもしれない」と思ったり、
「親じゃないんだから、気持ちが分かるわけないやろ」と、思われるのが若干怖いからだ。


ただ、最近、わたしなりの視点を話す機会があった。
そしてこの視点は、誰かを「解き放つ」ことにつながるとも感じた。




先月、前職がきっかけで仲良くなった友人に再会した。
かれこれ10年来の仲だ。

同い年で好きなものも似ているなど、多々共通点がある。
また、わたしと同時期に不妊治療も経験していた。
お互いライトな話からドロッとした部分まで話せる仲だ。

ちょうどコロナ禍に彼女は出産し、
わたしが三重に住みはじめて以降も週1でLINEしている。


久しぶりにリアルで会ったとき、彼女は今の悩みを打ち明けてくれた。
それは、4歳の息子のこと。

・女の子の友達が多い
・ピンク色のものが大好き
・お気に入りの靴はかわいいお花がついている
・二つ結びしてくれと言われる
・ユニクロで着たい服を選ばせるとワンピースを持ってきた

などなど。

彼女は、
「これから先、友達にいじめられないか不安だ。息子が傷つくかもしれない」と吐息をもらした。

しかし話をよく聞くと、ご夫婦の意向が手に取るように分かった。

・したいようにさせるのが一番だと考えている
・息子の考えを否定しない
(これがいいんじゃない?と誘導はしない)
・旦那さんも、息子が心からほしいものを選ばせて喜んで買ってあげている
(カチューシャ・ヘアピン・ピンク色の靴など)


わたしが、母親を経験していたら彼女の気持ちに寄り添いまくっていただろう。

でも、わたしは思わず
「息子くんは幸せものだね」と、心の底から迷うことなく言ってしまった。

友人の戸惑うの気持ちは理解しつつ、子ども目線でそう感じたからだ。
それにわたしは、子どもであった経験しかない。


「ひみつのあっこちゃん」の手鏡を右手に持ち、
左手には〇〇レンジャーの刀を持って下あごを突き出し、威嚇している自分の幼少期の写真がある。

大好きなアニメは「機関車トーマス」だったし、
今、大好きな漫画TOP10のうち9つは青年漫画だ。


まだ4歳であり、今後どうなるかは分からない。

しかし、少なくとも、
「親に肯定してもらえること」がどんなに彼にとって心強いことだろう。と思えた。

それと同時に、
自分の価値観を押し付けず、息子を「人」として見ている友人にも頭が下がる。

周囲の目よりも何よりも、
「親の存在(考え方)」を乗り越えるのが一番ハードルが高いと当事者から聞くこともある。


友人の息子は今の時点ですべて親に肯定され、
すくすくと楽しく過ごしている。

「カチューシャがほしい」と言っても、
「それは女の子がするものだよ」とは言われず、
「似合いそうだね!」っと言ってくれる親なのだ。

成長して、たとえ今後もし傷つくことがあっても、
受け入れてくれる(守ってくれる)「親」という場所がある。

また、最近思うに、
令和生まれの子どもは「アイデンティティ」の部分に触れる機会が多いとも感じる。

先ほどの映画やドラマ然り、
「型にはめない自分」を貫いている人が世の中にはたくさんいるし、発信も数えきれない。


つまり、私たち親世代を含めた平成生まれ以前の人こそ、もう少し知る必要があると感じる。
(あまり世代ではくくりたくはないことは、ご了承いただきたい)


友人にこの考えを話した後、
今見ているドラマ「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか」の話をした。

「原田泰造がアップデートしていく様が見られるよ~」と、
原田泰造の演技のすごさや、ちゃらけた話も交え、その日は別れた。
(ちなみに、漫画が原作だ)


帰りの電車の中では、
「もっと友人の力になれることはないか?」
「もう少し気持ちに寄り添い、客観的な意見など言う必要はなかったかも」
など、少し一人反省会をした。

とはいえ、やっぱり彼女の息子は本当に幸せ者だと思う。



後日、彼女から連絡が来た。

「ガチガチに凝り固まっていた頭と体を解き放ってくれてありがとう!」

「おっさんのパンツを見て救われたよ」

何も知らない人がこの文面だけ見ると若干怪しいが、意を決して紹介して本当によかった。



「自分らしく」の定義は曖昧だ。
だからこそ、一言では表現できない難しさがある。

その人が生きてきた歴史・背景・感情がこびりつき、
「当たり前」が根を張っているからだ。

さらに、根付いている力や量はさまざま。

年齢を重ねるに連れて固定概念が凝り固まるのも当然だ。

でも根本は、
「人」を「性」で見るのではなく、「人」として見ることでないかと思う。

「かっこいい」や「かわいい」という言葉を一つとっても、
それは限定した性で使うべき言葉じゃない。とも思う。


自分らしくいられる場所が一つでもあれば最高。
一つでも増やせたら、それほど幸せなことはない。

セクシャリティに関わらず、
そんな場所を見つける旅みたいなものが
生きることなのかもしれない。

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