自己肯定感、が分からない話

自己肯定感が低いだの高いだの、よく耳にする言葉だと思う。

よく、インフルエンサーへの質問なんかで「自己肯定感を高くするにはどうすればいいと思いますか。」なんてのをよく見る。

しかし私はどうしてもこの問を見る度に「自己肯定感ってそう考えるものなのかな」と、考えてしまう。

そもそも、自己肯定感とはなんであるかだが、

色々見た感じ、「自分に価値があると思えると自己肯定感が高く、価値がないと思うと自己肯定感が低い。」だと思われる。

で、早速本題。

何故私は自己肯定感が分からないのか、それは自己の価値というのは他人によって決められるものだと思うからである。

例えばピカソ。

彼の描く絵には価値がある。

それは最初は絵自体に価値がついたのかもしれないけど、時間が経つにつれ、“彼が描いた”ことに価値がつくようになった。

例えば国の首相。

その職は重要なものであるため、その職につく価値があると考えられた人が推薦され、票を得て、その職へとついた。

インターネット上でみる自己肯定感義談において、自己の価値というのは他人と比べられがちだ。

過去の自分と比べるべきという言葉を聞いたこともあるけれど、話を聞いている感じ過去の自分と今の自分の伸び代を他人の伸び代と比べている気がする。

で、あれば結局、他人と自分を比べた結果自己を肯定出来るかどうかを悩んでいるという認識であっていると思われる。

しかし、ここで考えて欲しいのが、

その時の他人の価値とは自分の中で生まれた“一般的な人間”という抽象的なものや“ある特定の個人の中で自分が見える範囲”であるということだ。

だって他人の全てを知ることなど不可能なのだ。自分の名前で無理やりにでも他人を定義しなければその人と自分の価値が比べられない。

その時点でおかしくないか?

Aという個人がAについてつけた価値とAという個人がBという個人につけた価値を比べてもそれはAの思考に偏るに決まってる。

第三者がAとBについてつけた価値を比べるならまだしも、Aが自分も含めた全てを比べて順位をつけたら、Aのその時の思考に寄った評価しかなされない。

その評価を捻出して一体何になるのだろうか。

仕事がスムーズになる?対人関係が円滑になる?

いやそれに必要なのは他人の評価だろう。

他人が自分をどう評価するか。そっちの方が案外大切なのではないか?そう思ってしまうのだ。

ただ他人の評価に躍るべきだとは言わない(つか言いたくない。)

だってそもそもこの世に同じ価値観の人間なんていない。

であればその人の価値というのは千差万別ということになる。

ピカソの絵を素晴らしい。いくら払ってでも手に入れたい、と思う人もいればなんであんな絵に高額がつけられているかてんで分からないという人だっているだろう。

でも前者のおかげでピカソは画家として食っていけたのだ。

自分を嫌う人がいれば自分を好く人だっている。

ある程度他人に好かれる努力は大切だとは思うが努力した上で嫌ってくる人はどうしようもない。

そう諦めて、自分が大切な人、自分を好いてくれる人を大切にする。

これが私が私を肯定する手段である。


まぁ別に自己肯定感が低くて悩んでる人全員にこの言葉をかけたら問題が解決するだなんて思ってない。

そんなふうに割りきれないよ

と言われたことだって多々あるし、自己肯定感を考えることで悩みが解決したり自己肯定感を考えたくなくても考えてしまう人だっているかもしれない。

ただ本当に自己肯定感が何かわからなくなって辛い人にこの考えが伝われば、ちょっとは気楽になるかななんて考えと

単純に私が自己肯定感について考察したかったからしてみた、という結果がこのnoteだ。

なので一意見として見てくれればいいなと。






あと放置しすぎたので生存報告的な

いきてまーす。

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