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自分という人間を生きるということ


私の知り合いに女性なら誰でも憧れるような名の知れたフランス企業に勤めている女性がいます。

順調に出世して役職も今では管理職です。

その女性は、誰かと出会うとなぜか開口一番に、彼女の職業について話します。

どこに勤めていて役職は何かを、会ってすぐの人に話す癖があるのです。


それは、女性同士の場合だけでなく男性と出会っても、すぐに

『私は、〇〇に勤めていて〇〇っていう役職なのよ。』


と、まるでその肩書きの鎧がないと、そのままの彼女では価値がないかのように。



ある日、彼女は知り合ったばかりの女性からある会社のプライベートセールに誘われました。

その女性からは、

『あなたのお友達もたくさん連れてきてください。』

と言われて、顔の広い彼女は、セールの行われてる平日に時間のある専業主婦の友人をたくさん連れていってあげたそうです。


そのプライベートセールの品物は、実際のところあまり品質の良いものではなく、売れ残り品という感じだったそうなのですが、主婦の方々は、せっかく誘っていただいたのだからと、必要のないものも気を使って買ってくださったそうです。

誘ってくれた友人の顔を立てる気持ちもあったのだと思います。


しかし、その夜、怒り狂ったその女性から彼女に連絡があります。

『あなたが〇〇に勤めているというから、もっと良いコネのある人だと思っていた。あなたの連れていた友人は、皆、働いてなくて使えない人ばかりじゃない。せっかく貴重なセールに誘ってあげたのに無駄だったわ。』

というようなことを電話で1時間以上も言われ責められたそうです。


後で、わかったことですが、その方は、フランスに来てもう数年になるのですが、フランス語も英語も苦手だったので、パリに住む日本人ネットワークを利用して仕事を探そうとしていたらしいのです。

仕事を探していたり、助けが必要な若い女性がする勘違いの一つに、今、現役で働いている人が誰かや何かを紹介してくれるかもしれないと思っていることがあります。

しかし実際のところは、バリバリ働いているように見えたり、たくさんの知り合いがいそうな人が、その人が求めているものを与えてくれるとは限らないのです。

特に20代、30代前半に日本を出て海外で生計を立てていこうと頑張っておられる方たちに、他人の仕事まで面倒が見れる余裕のある方は残念ながらあまりおりません。


彼女がプライベートセールに連れてきた専業主婦の方の中には、フランスの大企業の重役クラスの方や政府関係の要職についている方と結婚されている方もいらっしゃいました。

結婚後フランスに移り住まれてからも、ご主人の仕事の関係や友人関係を通して多彩な出会いがあり幅広いコネクションをお持ちですが、彼女たちは決してそのような話題をすることはありません。

そして彼女たち自身も高学歴で渡仏するまではしっかりとしたキャリアを持っておられたので、エリートの旦那様を通さずとも彼女たち独自のネットワークもお持ちの方でした。

実際、私が渡仏当初、困ったことがあるたびに相談に乗ってくれたり助けてくれたのは、そういう方々でした。

そして、そのような方々は、決してご主人の職業やご自分の学歴・キャリアなどを会ったばかりの人にすることはありません。


私には渡仏当初から家族ぐるみで仲良くさせていただいているファミリーがいて、その中には誰でも知っているような会社の重役の方や政府関係の方もいますが、何度も家族ぐるみでバカンスを一緒に過ごすくらいに仲良くなっていくうちに、何かのきっかけで具体的な役職などを知ることになりましたが、本人や奥様の口からそのようなことを話されることはありません。

たまたま私のフランス人の義父が私の友人ファミリーと会うことがあり、義父から、ミカリュスのお友達は、『〇〇のヴァイス・プレジデントらしいね』と聞かされ、初めて『ほーん、いつの間にそんな偉い人になっていたんだね』と思うくらい、私にとってはどうでもいいことなのです。


その人が社会的にどうだからという理由ではなくて、人間として魅力的だったからお友達になったのですから、出世しようが、落ちぶれようが友人であることに変わりはありません。


わざわざ知り合ってすぐに社会的地位を話さなくても気が合う人とは合いますし、話す内容でお互いの価値観や暮らしぶりも自然とわかるものです。

そんなふうに、誰でもないただの私を好きになって友人になってくれた人は、人生の波の中で調子の良いときも悪いときも変わらずに友達でいてくれるものです。


類は友を呼ぶという諺はフランスにもあって、

Qui se ressemble s'assemble.
似ているものは集まる。


肩書きなどに固執している人には、同じように肩書きに興味の有る人が近づいてくる傾向があるように感じています。

これは、男女間の関係においても同じことで、相手の人柄よりも年収や職業に固執して選んだお相手との関係が愛の薄いものになりがちなのは、肩書きなどにこだわる女性を選ぶ男性にも同じような要素があるからだと思います。


<参考記事>




ちなみに、冒頭の誰にでもすぐに彼女の勤め先と役職を話してしまう女性は、男性、女性に関わらず、彼女を利用しようとする人ばかりを引き寄せてしまうといつも悩んでいます。


男性関係も同じで、年齢的にも激務に耐えられなくなってきた彼女は、早く結婚して好きなことをしてゆっくり暮らしたいという希望がありながらも、なぜか、男性と出会うと開口一番に彼女の肩書きを言ってしまうので、彼女を利用して楽をしようと思うヒモタイプの男性ばかりが寄ってくるそうです。

そして、ヒモタイプの男性との暮らしから抜け出したくて、やっと固くて真面目な職業の男性と出会ったのですが、なぜかその男性も彼女と付き合いだした途端に仕事を辞めてしまい、彼女の収入を当てにするようになってしまったとのことでした。



私は、日本で十分仕事をしてきましたので、パリにはロングバケーションということで移住しました。

それなので、一度も仕事を探したことはありません。

英語とフランス語の翻訳の仕事や広告関係の仕事は、日本在住の時からしていましたので、大切な方からの依頼は受けますが、こちらから探すことはありませんし、新規でお願いされた場合は、できるときはお受けすることもありますが、仕事を探している信頼できる友人を紹介するようにしています。

独身時代は、仕事を紹介してあげると言って食事に誘ってくれたり、その方の事務所みたいな場所に来るように誘ってくださる男性もおりましたが、実際のところ大きなお世話でした。(;^_^A

そういう男性は、異国で一人暮らしの日本人女性が皆仕事を探していると思っているようで、あちこちで同じように女性を誘っていたのだと思います。


フランス人の男性ともたくさん出会いましたが、『ロングバケーション中なのよ』というと羨ましがってくれる人はいても馬鹿にするような人はいませんでした。

おそらく私がフランス人だったならまた事情は違っていて、私が外国人であったということもあると思いますが、私の財布を当てにするような人もおらず『異国の地で一人で頑張っているんだね』と皆、親切にしてくれましたし、大切に扱ってもらっていたと思います。


こちらの記事でも少し触れましたが、誰かからに噂されたり、羨ましがられたり、反対にかわいそうに思われたり、そういう他人目線を気にすることなく自由に自分自身でいれる今の暮らしがとても居心地よく感じています。




こちらにご紹介する秦由佳さんの記事にもありますように、私がずっと欲しかったのはこの自由な時間でした。

🔗 何でもない誰でもないようなあなたと付き合ってくれる友人や家族との時間を増やして欲しい.

言いたかったことはつまり、どんな仕事をしてようが、どんな肩書きを持ってようがなかろうが、根本的にわたしたちはみなが自分の『名前』という職業を全うしているということなのだ。
そこから逃れるようにお金や成果に目がくらみ、大切なものを見失ったとしたらもう本末転倒。
自分という人間を生きること。当たり前だけど、社会的なもんより、地位的なもんより、どんだけ成功して稼いでるかより、そこのほうが大切で、そこが結局は一番の財産となるってこと。
仕事をしているときは役割が与えられる。明確な仕事や、重要性が分かる。責任感も与えられる。
でも、その役割がなくなった日常は、突然自由になりすぎて、自分自身に役割を与えられなくなる。
だから、役割が与えられている時間を無意識に大切にしすぎてしまうんだ。その時だけは生きてる感覚がある、と。追いかけているものがある時だけは、生きてる実感がわく、と。
自由に対する免疫が弱すぎる。自由というものがあまりにも遠くて眩しくて掴めないものになってる。
それはただの洗脳ね。生きるということがそもそも自由の体現なのだから、免疫が弱すぎると、役割に負けてしまうんだ。

だから、個人的にわたしから全国のみなさまにお願いがあるの。
社会や会社から与えられた役割を全うする時間を少しだけ減らして、何でもない誰でもないようなあなたと付き合ってくれる友人や家族との時間を増やして欲しいの。
あなたが役割や社会的なものに対して向きあい、がんばってる時間を、あなたが誰であろうとあなたの側にいたいと思ってくれる人のことを考える時間にして欲しいの。
あなたの会社は、あなたが成果を出したら認めてくれるかもしれない。
でも、あなたが役割や成果という装いを脱いだ時のあなた自身に、どれほど社会は関わり、そして抱きしめてくれるだろうか。

(グレーの囲み部分は秦由佳さんの記事からの抜粋です。)



<追記>

社会のルールの中で生きていると、役割に囚われがちになるのは仕方のないことかもしれません。

会社の名刺がなくなっても、どこかに所属していなくても、自分の足元は決して揺らがない、自分は自分で何も変わらないのだということ、価値を与えてくれそうな肩書きがあるからではなく、自分そのものが価値であること、それが本物の自己肯定感であり、本物の自己肯定感のある人は、他人に対してもその人のそのままの中身を愛することができるのだと思います。




元記事:”何でもない誰でもないようなあなたと付き合ってくれる友人や家族との時間を増やして欲しい.”(ミカリュス・ブルガリスの心の薬箱)
December 02, 2016 14:15:29 テーマ:気づき

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