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『死んだらどうなるのか?』ノート

伊佐敷隆弘著
亜紀書房刊

 命あるものが死んだらどうなるのか。命あるものはいつかは死ぬのだが、どうなるのかを考えるのは、人間だけだろう。
 副題に「死生観をめぐる6つの哲学」とあるように、哲学担当のT先生は、「死んだらどうなるのか」を、日本人の死生観にみられる6つのパターンに分けて学生のSくんに提示する。第一部はそこから対話が始まる。

1 他の人間や動物に生まれ変わる
2 別の世界で永遠に生き続ける
3 すぐそばで子孫を見守る
4 子孫の命のなかに生き続ける
5 自然の中に還る
6 完全に消滅する

 これらがひとりの人間の心の中でいろんな割合で混ざっているとT先生は言う。
 そして、第1章のテーマ〈生まれ変わりと不死の生〉は仏教の六道輪廻をまず取り上げる。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの境涯であり、人が死んだら、生前の行いによってこの6つの世界のどこかに生まれるという。いわゆる因果応報ということだ。これは宗教や哲学というよりおとぎ話の類で、子どもに生き方を教えるような類いに思える。仏教の生死の捉え方はこの程度とは到底思えない。この六道輪廻を脱却するには〝悟り〟をひらくか仏にすがることによって〝往生〟して不死になるしかないという。

 第2章〈山の上から子孫を見守る〉では、お盆の行事や精霊流しの行事に触れ、お盆は、亡くなった先祖が子孫に会いに来る日という意味があるという。
 筆者の幼い頃は、お墓まで迎え火と送り火をしていた。送り火の変型が精霊流しになったのであろう。
 
 第3章〈子孫の中に生き続ける〉では、生命の連続体としての〝家〟を取り上げる。儒教の死生観では、先祖から子孫へと連続する一つの生命体(=家)があって、その小さな部分が個人である、という考え方で、『易経』にある「積善の家」を例に挙げ、「家中心の死生観」を示す。

 第4章〈一度きりの人生〉では、キリスト教における天国と地獄を取り上げる。キリスト教の死生観の特徴は「一度限りの人生」であり、この宇宙も一度限り、人間の一生も一度限り。生まれ変わりという考え方はキリスト教にはない。
 この宇宙は「神の無からの創造」であり、時間さえも神の創造だという。ここの部分は、なかなか筆者の興味があるところだ。〝神〟という概念を除けば、いまの宇宙論そのものだ。
 ここで特徴的なのは、キリスト教では「人間の個別性が永遠に保持される」ということだ。そして有名な「最後の審判」という宇宙の終わりがくるという。
 このあと、〈日本の文化は雑食性か〉では日本人の宗教観の特徴を取り上げる。

 そして第二部の身体論においては、第六章〈魂の存在を証明できるか〉においてデカルトを取り上げ、有名な「我思う、故に我あり(cogito,ergo sum)」に行き着いたデカルトの思考の跡を辿る。ややこしいが面白い論議だ。

 第七章〈世界が物質だけなら心はどこにあるのか〉では、自然科学と心のゆくえを取り上げ、第八章〈死ぬのは私だ〉では、より根本的な問題である〝私〟とは誰かと問いかける。
 最終章の第九章〈関係としての死〉では死んで自然に還るという視点で、科学的、哲学的観点から死というものを捉え直す。ここでは、大ヒットした「千の風になって」という歌や、佐野洋子の『百万回生きたねこ』、高見順の詩集『死の淵より』所収の「帰る旅」という詩などを取り上げて論じている。
 筆者にはこの第二部が非常に興味深い内容であった。

 誰の言葉か忘れたが、「死は我々にとって何ものでもない。なぜなら我々が存在する時には、死はまだ訪れていないのであり、死が訪れた時には我々は存在しないのだから」――この通りであれば、死は怖くない?

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