他人に気を遣わせる人間こそが敗者だ。何かを救い、守りたければ強者であれ。最強の強者になる和顔施のススメ
霊枢という、古典の医学書の問答の一節である。
その一節は、現代人の私たちにとっては息苦しく、むしろ”時代錯誤”の印象すら受ける。しかし、私たちは陰と陽、つまり目にしている事象、目にしている対象、目にしている環境と、自分では自覚しない事象、自覚なき対象、自覚なき環境と連動し、目に見えない形で繋がっているのであります。
ですから、今の私たちの社会は、自分だけの自由や自分だけの生き方を追求し、それぞれがしあわせになろう、というある意味では正当性のある、しかし矛盾したことを全面的に推進しています。
私たちの社会というのは、わたし個人だけの生活でありながら、私だけの社会ではありません。生きとし生けるものすべてが命を持ち、万物すべてが尊厳を持って生きている社会です。ですから、自分だけの一方的なしあわせの価値観の為に命を簡単に奪ったり、自分のためだけに人を貶めたりしてはいけないのです。
病人を診察するときにどのようにすべきか。それは天地の動き、働きを見て病人が何を望み、何を期待し、何をしてほしいかを見る。そこから体の調子を調べて適切な処理をするのだ、と述べています。
現代人の私たちは、あまりにも自分の自由ばかりをいい、他人が何を気にして、何を求め、何を必要としているかを見ないくせに、『他人が自分に何をしてくれるか』ばかり求めるような社会になっているようになっています。
一見して、自分の自由ややりがい、自分の幸せというのは聞こえがいいものですが、自分だけのことを考えて生きていくということは、自分さえよければ後の始末は誰か任せ。自分の責任を他人に押し付けて自分の好きなことをしているだけです。
そして、自分の世代の享楽のために環境を汚し、崩し、刹那的に金が稼げたらいい、あとの問題はすべて残された人間や子孫任せ。生きるも死ぬも己の力で生きていけと言わんばかりに、自分以外のその先の子々孫々まで影響を与える、という想像力を忘れて環境を取り壊し、変化させている。
私たちの社会を健全に保つためには、自分の自由とは正反対に『自分という我を抑える忍耐も必要』だということを霊枢を読み返して改めて感じたのです。
矛盾を超えていかなければいけない
この今の時代は、自分が他人と比較対照しやすい時代になり、他人をうらやましがったり、妬ましかったり、他人の愛情を欲しがったり、そういう自分にないものをどうにか手に入れるために必死になって求めて求めて、それでも手に入らない苦しみに溺れているような、そんな時代に感じます。
私自身も、いつも悩みます。自分が正しいことをしているのかどうか、本当にしあわせなのか、自分の生き方は間違っていないか、そういう自問自答ばかりを繰り返し、自分が得てきた知識ばかりに頼り、最近は無意識にも他人に興味も抱かず、自分の思うことばかりして『発達障害の気があるし、どうせ自分を他人は理解できない』と思って人間のバカさ加減に嫌気が差し、そういう自分にも嫌気が差しつつ過ごしていました。
しかし、今日私は突如として和顔施という、この世で一番大事な行為の重大な意味を理解したのです。
人に気を遣わせたら負け
私は、人に気を遣わないことこそ人に対しての配慮だ、と何となく自分勝手に感じて【自分のしたいようにすることをするのが人の為だ】と思っていました。笑いたいときに笑い、笑いたくないときには笑わない。
そういう生き方が一番いいのだ、と、散々辛酸を舐めた結果、長年こうしてきたのです。
しかし、私は全面的に間違っていました。
この行為こそ、他人に気を遣わせている行為だからです。
人は、笑顔がいちばんほっとする
現代社会はみんな疲れているのです。
私だけではなく、あなた自身も、あなたの周りの人たちもみんな疲れ果て、自分がどうやって生きて行ったらわからない、自分の何に価値があり、何に価値がないのかもわからない、しあわせかどうかもわからない、そういう不安の中で生きているのです。
私は、今日久しぶりに人の輪に囲まれ、笑顔で過ごす人たちの中で無理やり笑顔を作り輪の中に入りました。その時の私は前述した通り、緊張が入り混じった気持ちと、無理やり作るその笑顔に抵抗感を持って臨んでいました。
しかし、あるときにその輪の中にわたしの疑念のエネルギーが伝播して、その場のエネルギーがある種、気を使ったものに変わったのです。
いつもと違う雰囲気を感じた人の一言で、わたしは今日の霊枢の言葉を思い出しました。
礼儀というものを皆目わたしが忘れていたとはっきりと悟ったのでした。
礼儀とは、ただあいさつや丁寧に先生にお辞儀をしたり、そういう振る舞いをすることだけではなく、その場所にあった態度を自我を捨ててその場の空気を読み、自分もその態度で真剣に望むことである、と。
そして、その際にみんなが笑顔であったことやはじめて参加したわたしに対して相手も気を使っているにもかかわらず、私は笑顔すら出さずにただひたすら自分の我の心でなかなか笑顔を出すことができず、相手を緊張させるだけさせて自分のことしか考えていなかったことを悟りました。
これだけ色々勉強してきて知ったかぶりをしてきたのに、実際は人に対して何も善を施さず、人に気を遣わず、気を遣わせるだけ使わせる傍若無人のそれが自分だったと感じた時に、自分の愚かしさの恥ずかしさと、自分のことを考えることと、自分のことを考えない、そういう矛盾を超えて中和させるために必要なことは何かを考えた時に初めて和顔施の偉大さが稲妻のように落ちてきたのです。
いくら相手の態度が酷いものだったとしても、相手も自分のしあわせを欲しがっているだけです。自分が欲しいものを手に入れたくて苦しんでいる。その自分の心の隙間と自分の心の隙間を笑顔が埋めてくれ、中和してくれるのです。
わたしは、なぜ今まで人のために我を折って何をしてほしいかを知ろうともせずに自分の身を守るだけ守ってきたのでしょうか。
それは、私自身も不安だったからにほかなりません。
国常立尊神の御心
霊界物語に出てくる国常立尊の神は、悪神に散々心をかき乱され、自分が苦労して作った世界が汚れ果て、曇り、この地上をどうにかしなければいけない、そのために新しい世の中にするために動き出しています。
国常立尊神は神々の過ちのたびに自分自身の責任を感じて後頭部の髪の毛をむしり取り、血だらけで痛みもある中でこつ然とした態度で神々に臨んでいたという記述があります。その行為に非常に感動した記憶がよみがえりました。
これらは、私たち自身が知らぬ間に自分の不安から目をそらすためにしてしまいがちなことです。皆の態度はみんなが悪い、と思いがちです。
しかし、自分の失敗は、自分の行いが招いていることであり、自分が感じている世界は、自分が招いている、ということを忘れてはいけなかったのです。
自分の為に忘れてはいけなかったのです。
自分の今生きている世界をよくするために必要だったのです。
いくら他人がしている行為であっても、自分も他人事ではなく自分すらも自分勝手に生きている。
自分勝手に生きている自分だけは認めてほしい、でも他人は認めない、では理不尽であり、非常に矛盾した行動になる。
私は、人を知り、人を信じるということを今日の出来事ですっかり忘れていた気がしました。和顔施とは人に善行をしているだけではなく、自分自身を許し、自分自身をよく知ることでもあると思います。
いくら物事を知っていても、いくら金があり地位があり名誉があっても、人に信頼されない、信頼していない人間は価値がないのです。それらを失ったら残るものが何もないからです。ですから、そういう人間は本当は負け組なのです。
私たちが本当に価値のある生き方というのは、何もなくても誰かのために何かをする自分がそこにいる、という事実だけではないでしょうか。それは、不安な世界を生きているみんなが、自分だけでも不安を忘れさせてくれる人がいる安心感は人を救うことになるのだ、と本当に悟ったからです。
本物の強いものになろう
わたしはなんという愚かな人間だったでしょうか。
弱腰で生きてきたのです。自分の不安ばかりを直視し、他者の苦しみに心を配れない、そういう情緒のない人間だったことが今日はっきりと自分の姿として忽然と現れました。
自分の我に縛られて今まで生きてきて、【何がしあわせで何がしあわせじゃないか】と、自分の幸せばかりを考えてきてしまったのです。
この世の中の暗闇を照らすのは圧倒的な強者だけです。その強者とは【人に笑顔を与える人】です。自分の我を折って、その人に、その環境に、その全てに笑顔を与えられる強い人間になって、いきていかなければいけません。
なぜなら、それが自分の幸せにつながるからです
他人に媚び、へつらい、無意味に我を折ってヘラヘラしているのではなく、他人に気を遣わせる負け犬ではなく、自分の信念と自分の確信を持つためにより勉学し、自分自身の真理をもって自分の確信を得たものを信念として、強くなり、人に和を与え、笑顔を施せる強者であれ!
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