自分の内側にある、本当の愛を取り戻せ
私たちの地球に存在する数多の教えには様々な解釈がなされているが、この地球を作った神は神道では国常立尊といわれ、キリスト教、ユダヤ教では創造主と言われているだけである。
ですから、言葉は神である。と言われていて、音によってすべてが誕生し、唯一神としての物質的な人間の姿としての神ではなく、途方もない遥か彼方昔の大元である神あり、その神がこれから世の中に出てくる、とされているのであります。
最初は人類というものが存在していないころから神は存在している。人類を作るにあたり、細胞の一部を神は人間に与えた。(神という言葉に嫌悪感があれば微細なエネルギーとかでもよい)
人間の肉体には霊体が、球竿状のように目に見えない形でつながっている。
この球竿状に繋がった状態は、全ての存在しうるすべてと繋がっていて、これを陰陽として、霊界物語では水火として指し示す。
その霊体の中心になる、創造主と繋がる一部をスピリチュアル世界では内在神ともいい、大本教では直霊とも言われている。
私はまだ、霊界物語や大本の霊魂感がわからないため、東洋思想を中心に話しを進め内在神で進めていく。この内在神というのは、私たちが生きている間に成長させる魂とは別である。
生きている間に成長させる魂は『魄』である。
精霊とされる魂を『魂』といい、これらを二つ合わせて東洋思想では
魂魄
という。
この魂魄も同じく球竿状でつながっている
私たちの生きている間に活発に働いている魂は『魄』であり、生きている間は地獄の苦しみ、最悪な人間との出会い、憎しみや悲しみを経験し、また、天国の喜びや楽しみを経験し、そうした天国と地獄の経験を地球という星で経験することで、魂魄を成長させている。
人間の死後は、この魂魄の成長度によって地獄にも行き、天国にも行けるようになるのだが、人間は生きている間に様々な人に出会い、様々な経験をするたびに地獄や天国を行ったり来たりする。
ヨガでいうチャクラのある場所に相当する6個のチャクラが自分の今、感じている感情や環境、理解を受け止め、その魄の存在し、体験している階層の経験をさせているだけであるからだ。
つまり、魄である現世での自分の”魂”は、自分を成長させなければならず、成長をさせるために魄が存在している。
魂=魄であるので、魂が苦しめば、同時に魄も苦しむ
神は、自分の肉体から(神という概念が苦手な人は、宇宙からでもいい)細微な細胞を放出し、私たち万物を誕生させた。
そして、この魂魄というものを作ったものが【創造主】であることは、最初の説明のとおりである。
その一部分が魂魄に分け御魂として存在していたが、創造主に与えらえられた内在神としての自分の本性の姿はすなわち『善』の心である。
国常立尊の隠れた姿にしたように、善の心である神が闇に落とされ、地獄の番人として見つめている。本当の自分というものは、闇に落とされ、見えなくなっている。
つまり、私たちの本性は、「あれ?もしかして」と疑問が浮かび、知って、意識して、自分自らで内在神を探さなければ内在神には出会えない。
神(自分の善の心)を信じる気持ちがなければ見つからない
では、なぜ本性が隠れてあなたやわたし自身の本性が見つからないのか。
それは、私たちには【エゴ】という強烈な悪魔が心に存在しているからである。これらを神道では禍津日神ともいい、多宗教では悪魔という
魔物が本性を見せないようにして、内在神は悪魔や禍津日神によって、幻を見せられ、純粋であった善の心を曇らせ続けてきた。
さて。
長々と書いてきたが、私たちの本性は今、エゴと言う悪魔によってめちゃくちゃにされている。本性に持っている心に抱えている善の心を失いかけている。
神道では人類愛を説き、仏教では菩提心を説き、キリスト教では愛を説く。愛とは何か、とは『自分の善の心を呼び覚ますこと』でもあるのかもしれない。
地獄に落とされて隠された神が表に現れやってくる。
それすなわち、
自分の本性に嘘がつけなくなるときである。
神が表に現れて、善と悪を立て替える。
愛を忘れた人間は、立替立て直しで選別される魂
愛を取り戻せ
私も他人ごとではない
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